
リリース当時に購入し、当時、何度か聴いてそれきりになっていた。
昨日、アバドがベルリン・フィルを振った、ヘルダーリンにインスパイアされた作品集を聴いていて、そういえば、プロメテウスをテーマにしたアルバムについてどんなことを書いていたのか確認しようとブログ内を検索したところ、記事がなかった。
てっきり採り上げていたと思っていたが、そうではなかったよう。
なるほど、随分長い間棚の奥に眠っていたことになる。
アバドの挑戦が長続きしなかったのは、聴衆からの不人気によるものだが、僕にとっても彼の試みは「過ぎた」ものだった。
(もし、本当に興味深い試みで、かつ心惹かれる名演奏揃いだったら幾度も聴いているはずだから)
(確かに少し教育的過ぎたようだ)
冒頭のベートーヴェンからして、アバドの端正な解釈が(ある意味)仇となっている。
ベートーヴェンの作品の中でも決して傑作の部類には入らないこのバレエ音楽をいかにも礼儀正しく指揮するアバドらしい方法が、かえって作品の魅力を軽減しているように僕には思われる。
ブラームスにはぴったりだった方法が、ベートーヴェンにはむしろ障害となる、そんな印象。
後期ロマン派のブラームスには不要な浪漫の種を、古典派のベートーヴェンにこそ投入すればもっと面白くなっただろうにと思う。
次のリストも僕には面白いと思えない。
そもそもフランツ・リストの音楽そのものが僕には浅薄に聴こえてならない。
(大変失礼なのだが)
このアルバムの中で僕が最も惹かれるのはルイジ・ノーノの「プロメテオ」だ。
さすがに現代音楽を演らせると、アバドの棒は俄然活気を帯びる。
前衛こそが彼の最適の畑だと僕などは思うのだが、難解な音楽をいとも容易く、もちろん聴衆に媚びることなく、しかしより近づきやすいように料理するとでもいうのか、その力量には舌を巻く。
プロメテウスは、人類に火と智慧を与えた、人類の創造者だといわれる側面と、一方で、神を欺き火を盗んだ罪に問われ、永劫の罰を受けた罪人としての側面を持つ神だ。
それはまさに僕たち人間の、現代人と相似形たるものであり、おそらくノーノが描く音の絵は、功罪の両面を顕したもののように僕には思える。
唯一手掛かりになったのは、アンドレ・リヒャルトさんが、「プロメテオ」の空間的な構造をどう解釈したらよいのかを具体的に話してくれたことでした。僕なりに解釈すると、「プロメテオ」は第一の島、第二の島という風に各章を「島」と呼んでいるわけですが、マッシモ・カッチャーリが現代思想の中で彼の一番ユニークな貢献であると言われている「群島」という考え方を頭に入れてシナリオの提案をし、それを受けてこの「島」を時間系列において組み立てていくことが、「プロメテオ」の構成になっている。そういう風に僕は理解しました。それなら空間内に「島」を作れば良い。島も立体的であって、浮島とも考えられる。観客席になってもいいし、ステージになってもいい。現在あるものをバラバラにして空中に浮かす。
(ヘルムート・ラッヘンマン)
こういう見解を読むと、「プロメテオ」は実演を聴かない限り真に理解は難しい作品だろう。
抜粋だが、アバドの意欲と革新、そして確信が感じ取れるノーノに乾杯。
素敵だ。
