
どこをどう切り取ってもライヴのフルトヴェングラー。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオの有名な第1主題の、例のフェルマータの処理は、残された巨匠の演奏の中でも、最も長い印象を受けるが果たしていかに。
全楽章を通じ、テンポの伸縮は激しく、速い個所は速く、遅いところはとことん遅い。それほどに生命力豊かなハ短調交響曲は、巨匠が心身ともに最も充実していた頃のものだからなのか。これでもう少し録音の状態が良ければ、後世にまで残されるべき名演奏の名盤になるところだろうが、残念ながら音質はいまひとつ。
少なくとも歴史的に見て、非合理的なリズムの過剰には、当初より、厳正な楽節法の理知が対置されていた。言い換えるならば、非合理的なリズムの背後には一切の分節化を蔑視する根源的な「陶酔」が、理知的な分節化の背後には一切の生命、とどのつまりは陶酔をも併呑し、秩序づける意志と力を有する「形象」が控えているのだ。ニーチェは、アポロ的とディオニュソス的という概念の鋳造によって、この対立に初めて記念碑的な表現をもたらした。しかし私たち現代人にとって—ベートーヴェンの芸術を前にして—肝要なのは、この二つの概念が決して対立物ではない、厳密に言うならば、無条件に対立物とみなすべきではないという理解である。両者の統一こそ芸術、少なくともベートーヴェン的な芸術の課題であるように思われる。
「ベートーヴェンと私たち—『第5シンフォニー』第1楽章についての省察」(1951年)
~フルトヴェングラー/芦津丈夫訳「音と言葉」(白水社)P245-246
これは、ベートーヴェン自身が晩年に、「歓喜の歌」によって説明せんとした言葉の、音楽的解釈であり、それによってベートーヴェンが目指したものは、音楽によって世界を一つにしようとする「天人合一」だったことを示すものだと僕には思われた。もちろんベートーヴェンの内にも葛藤はあっただろうが、このことが見事に昇華され、形になったのがハ短調交響曲だったのである。
いずれにせよ、その結果、混沌としてあふれ出るいわば無限の内容が有限の明確な形式を強いられることになる。最初これは奇蹟とまでは言わずとも、一つの矛盾と感じられる。なぜんあら、もともと無限の内容と有限の形式とは、たがいに矛盾するからである。内容が現に「力動的な無限性」となって湧出し、岸辺一帯に氾濫する場合は、なおさらのことであろう。事実上ここに、まさしくベートーヴェン的な創造の測り知れない核心が横たわっている。今やベートーヴェンの巨大な作品の一つを前にして、私たちの頭には次のゲーテの言葉が浮び上がる。
生々発展する鋳造された形式は
いかなる時、いかなる力も破壊しえない。
~同上書P252-253
有限の中にある無限こそ、「煩悩即菩提」の証しであり、ここにもベートーヴェンが後に唯一済渡された理由があったのだろうと僕は思った。そして、そのことを、無意識にフルトヴェングラー自身も理解していただろうと推測されるゆえ、巨匠の指揮するハ短調交響曲はいずれも感動的であり、永遠不滅だと思ったのである。
フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルのベートーヴェン第5番&第6番(1947.5.25Live)を聴いて思ふ
パリのフルトヴェングラー(1954.5.4Live)を聴いて思ふ
より精密に観察するなら、生物体とは各部分の共同作用からなり立ち、人間の考案した各種の機械よりもはるかに複雑であり、桁はずれに繊細かつ包括的なのである。自己自身の思考の牢獄、どこまでも物質に拘束された理知の網の目に救いようもなく落ちこんだ人々にとっては、むしろこの「鋳造された形式」の単純さが孤立した自我の束縛からの解放、いな救済とすら感じられるのではなかろうか。あるいは逆に、それは彼らにとって最大の恐怖の的となるのであろうか。たしかに往時の単純さ、たとえばモーツァルトの単純さは、今日の私たちには往々にして失われた楽園の無垢と映じることであろう。人々は、この単純さへの没頭をロマン主義、つまり現実からの逃避だと呼ばわるかも知れない。しかし、ことベートーヴェンの単純さに関しては、いささか事情が異なる。それは、私たちに生き生きと訴える単純さなのである。
~同上書P255-256
もはや音楽芸術の、そして再現芸術の真意がここにあると断言しても良い、結論めいた論説は、巨匠によるハ短調交響曲の演奏に見事に表現されることがわかる。フルトヴェングラーが最晩年に書き上げた「偉大さはすべて単純である」という小論の音楽的結論はここにあるのである。
・ベートーヴェン:交響曲第5番ハ短調作品67
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1950.10.1Live)
コペンハーゲンでのライヴ録音。(当日のプログラムでは、別にシューベルトの「未完成」交響曲が演奏されているが、これは「正規商業録音全集」に初収録されている)
戦後復帰公演のような猛烈な、疾風怒濤の表現はここにない。
しかし、大病後の、より枯淡の境地に行き着いた、表現でもない。
まして、同じ年のザルツブルク音楽祭での歌劇「フィデリオ」にある、聴衆を煽動せんばかりのエネルギーとパッションに溢れるものでもない。ただし、ここにはアポロ的なものとディオニュソス的なものとの統合を試みんとしたフルトヴェングラーの潔い、威嚇のない、優れた音楽的回答がある。
最後に特に強調しておくが、芸術によって人類を稀に見るほど支配しているこの芸術家は、決して権力を渇望する人間ではない。彼は、孤立を誇りとする当今の多くの芸術家のように知ったかぶりをすることも、その他なんらかの方法で共同体から自己を隔離することもない。彼はまたロマン主義者でもない。彼は熱狂せず、自己喪失や自己享楽に陥ることもない。しかし何にもまして、彼は威嚇することを知らないのである。
~同上書P264
終楽章アレグロの落着きといったら。
実に簡潔明瞭な、幾度も聴きたくなるベートーヴェンであろうか。
