
エディスの四番目にして最後の子供、エドワード・ベンジャミン(ファースト・ネームはすぐに使われなくなった)は、1913年11月22日に生まれた。音楽の守護聖人、聖セシリアの記念日である。青い眼に金色の巻き毛のかわいい男の子で、母のお気に入りとなった。身体はずっと弱かった。3ヶ月のときには肺炎で死にかけ、先天的に心臓が弱かった。これが後年、命を奪われる原因となる。よく眠れないたちで、エディスが歌って寝かしつけなければならないこともしばしばだった。人生の原点にあるこうした母親との習慣がブリテンの精神と後年の芸術面の成長に重大な影響を及ぼしたことは、誇張するまでもない。大人になってからも、ブリテンは決して外の世界を完全に信用することができなかった。誰にでもあることかもしれないが、ブリテンが抱えていた不安は格別だった。
~デイヴィッド・マシューズ著/中村ひろ子訳「ベンジャミン・ブリテン」(春秋社)P4
幼少からの体験、刷り込み、そして根拠のない不安こそがブリテン芸術の源泉になったことは間違いない。
常に生まれた土地の近くにいたがためにブリテンは子供時代を忘れることがなく、それがしばしば音楽にも現れている。また、海とのつながりも途切れなかった。海は、いつのときもブリテンの人生と作品の刺激となっていた。
~同上書P1
生まれ育った環境の影響もたぶんに大きい。
皇紀2600年の記念に日本政府から委嘱され、ブリテンが贈った作品が「シンフォニア・ダ・レクイエム」。しかし、鎮魂曲とは縁起が悪いということで日本政府から拒絶をされるも、作曲者が後年語ったところによると、依頼から時間がなく、致し方なく既に完成していたこの交響曲で応えたのだという。
実際、この作品は実に素晴らしい。
第1楽章ラクリモーサ(涙の日)は物々しく、かつ重苦しい雰囲気にもかかわらず、澄んだ音調に包まれるブリテンの創作の妙。続く、第2楽章ディエス・イレ(怒りの日)の喜びはいかばかりだろう。そして終楽章レクイエム・エテルナ(久遠なる平安を)の恍惚たる安息、静けさとクライマックスに向けての大いなる昇華に心が癒される。
委嘱作品の拒絶は標題に惑わされた日本政府の大きなミス。
絶対音楽として、交響曲として十分機能するベンジャミン・ブリテンの創作力。
ブリテン110回目の生誕日に。
(10年前はケラスのリサイタルでブリテンの無伴奏チェロ曲を聴いていたようだ)