
「死と浄化はまったく幻想的な構想だった—その根底にはいかなる体験も存在しないし、私が大病したのはその2年後だった。それはほかの場合と同様の思いつきに過ぎなかった。つまり(ニ短調で始まってニ短調で終わる)マクベスや、(ホ長調で始まってホ短調で終わる)ドン・ファンの後で、ハ短調で始まってハ長調で終わる曲を書きたいという、音楽的要求に過ぎなかった。
~田代櫂著「リヒャルト・シュトラウス—鳴り響く落日」(春秋社)P91
ベートーヴェンのモチーフたる「闘争から勝利へ」を体現せんとシュトラウスは画策したのだろうか。否、ベートーヴェン以来、誰もが人間本来的な希望と明るさを求め、集合無意識的に作曲を試みようとしていただろうことがわかる。
ハンス・クナッパーツブッシュが録音した「死と変容」(あるいは「死と浄化」)は実にオーソドックスな抑制された表現で、いかにもクナッパーツブッシュという側面は徹底的に削ぎ落されている。
一方、「ドン・ファン」は、激烈な冒頭に始まり、最後は静寂で締められる名作。
私を駆り立てた、美しい嵐も、
今は静まり、静寂だけが残った。
あらゆる願いも、希望も、死に絶えたかに見える。
あるいは、唾棄すべき天からの閃光が、
私の愛の力を打ち砕いたのか、
突如、世界は荒涼として、闇に包まれた。
あるいはまた—薪は尽き果て
炉の上は冷たく暗くなろう。
(レーナウ)
~同上書P86
だが、クナッパーツブッシュの指揮はここでも少々生温い。
(オーケストラの問題もあるのだろうか?)
安全運転で棒を振るクナッパーツブッシュの演奏は、作品の新たな側面を見出すのに役に立たない。純粋に曲を聴くならば、僕はむしろフルトヴェングラーが晩年に録音したものを採る。クナッパーツブッシュならではの遊びが欲しいのに、残念ながらその遊びがないのだから面白くないのだ。
しかし、やはり「パルジファル」からの諸曲は違う。
ここにはワーグナーに全身全霊を費やしたクナッパーツブッシュの本懐がある。
ライヴではない、セッション録音の中でも、クナならではのうねりがそこかしこに聴こえるのだから興味深い。
俗物根性丸出しの(?)シュトラウスに対して、少なくとも晩年のワーグナーの音楽は、たとえそれが似非であろうと聖なる響きが漂う。しかし、僕にとってはこれほど貴い、人類の再生と世界の平和を込めて生み出された音楽は他になく、繰り返し聴くごとに開眼させられる作品はない。
特に、クナッパーツブッシュの自家薬籠中の「パルジファル」においては、一分の隙もなく、個性すら横に置かれ、ワーグナーの発するメッセージだけが、冷静沈着に(?)語られる。
悲痛な激情の爆発に見られるあらゆる規矩を踏み外したような狂暴さは、素材の重圧を軽減する効能から言っても深刻な悲劇の一種の本性と化していると見ていいだろうが、そうした狂暴さが観客の胸に深い感動を喚ぶためには、まさしくそれによって踏み越えられる規矩が、情感の表現をあまねく規制する法則として遵守されていなければならない。ところで私たちの見るところでは、そうした規矩を確保する一番確実な方法は、呼吸と身振りの使用において節約の精神に徹することだった。
三光長治訳「1882年の舞台神聖祝典劇」(1882)
~三光長治監修「ワーグナー著作集5 宗教と芸術」(第三文明社)P354
なるほど、クナッパーツブッシュが体現するものは、ワーグナー自身が語るこの部分だったのかと納得した。ワーグナーを振る時のクナッパーツブッシュには明確な規矩、すなわち基準があり、そこからの絶妙な出し入れを使って楽劇を、音楽をコントロールしているのである。
僕はあらためて感動した。


