
ナチュラルで、ニュートラルであること。
よく生きるコツは「自然体」であることだとつくづく思う。
しかしながら、僕たちには自我があり、そこから恣意が発露される。
音楽の造形においては、楽譜から作曲家の思念や意図を読み取ることが大事だが、それよりむしろ音楽そのものが求めている「音楽の意思」を感じ取ることが重要だと今、僕は思う。
恣意を感じさせるものが多い中で、ナチュラルかつニュートラルな演奏を繰り広げるのがカール・シューリヒトその人だろう。
(自然体とはいえ、そこには強固な意思はもちろんある。ただしそれは、音楽そのものが求める意思だ)
最右翼はモーツァルト。
傑出した存在ではあるが、頂点に立っているわけではない。人間的な謙虚さと美学上の信念が、音楽芸術の世界で頂点を追い求めることを彼自身に禁じていたのである(それゆえ、私たちもそれができない)。この指揮者が音楽演奏上の「唯一」の真理を把握するがごとき指揮者としての役割を担うなど、思いもよらないことであった。彼は倦むことなく、音楽的感情の源としての、音の美しさを追及していったが、そういった場合でも「あるひとつ」の真理に近づくことができたなら、彼にとってはそれで十分だったのである。
~ミシェル・シェヴィ著/扇田慎平・塚本由理子・佐藤正樹訳「大指揮者カール・シューリヒト―生涯と芸術」(アルファベータ)P366
これは言い得て妙!
この言葉が証言するように、その「真理」とは「中庸」であったように僕は想像する。
(しかし、そのことは生涯通じて真に達成することはできないものだ)
(人間には自我が存在するゆえに)
シューリヒトが最晩年に録音したモーツァルトの交響曲を聴きながら、僕はそんなことを考えた。
録音年月は、様々情報あり、何が正しいのか不明。
(いずれにせよ最晩年の記録であることには違いない)
一般的には、颯爽たるテンポで、云々という見解が多いが、個人的に「スピードを感じさせない」、前述のように実に正当な、中庸な造形を保つ演奏だと思う。余分な情念も削ぎ落され、あくまでモーツァルトの音楽を、音楽だけを表出するもの。
そこには晩年のモーツァルトの孤独や苦悩すらも感じさせない、本性本来の明朗さと希望が刻印される、(大袈裟に言えば)奇蹟の表現と言えまいか。
願わくば第39番変ホ長調K.543の録音も欲しかったところ。

