モントゥー指揮サンフランシスコ響 ドビュッシー 管弦楽のための「映像」(1951.4.3録音)

モーリス・ラヴェルが、合衆国ヒューストンのスコットランド教会大聖堂で行なった講演(1928年4月7日土曜日)の記録。それは「現代音楽」と題されるもので、ラヴェル自身の思想がよく反映されており、とても興味深い。

音楽家としてまた人間としてのドビュッシーに対して、私は深い感嘆の念を抱いてきましたが、私は自ずから彼とは異なります。彼は私の個人的な継承遺産にまったく無縁ではないのですが、私は、ガブリエル・フォーレ、エマニュエル・シャブリエ、そしてエリック・サティを自分の発展の最初の段階に関連づけます。あなた方の偉大な米国人、エドガー・アラン・ポーの美学は、マラルメの霊妙な詩—無限の、しかし明確な構成を持った様々なイメージが陰鬱な夢想の神秘の中に、あらゆる要素が互いにきわめて深く結びついていて、それらの効果を分析するのは不可能であり、それらを知覚する他ないような芸術の中に閉じこもっています—と同様、私にとって格別の重要性を持つものです。とはいえ、わたしはドビュッシーの象徴主義は対照的な方向を個人的にはつねに辿ってきたと思います。
「現代音楽」(1928)
モーリス・ラヴェル/笠羽映子編訳「ラヴェル著述選集」(法政大学出版局)P181-182

後世の僕たちは常々ドビュッシーとラヴェルを印象派の代表的作曲家として一括りにしがちだが、ラヴェル自身がそのことを当時から明確に否定していたことの証しである。
確かに、この二人の音楽の方向性はまったく違う。
個人的な印象では、ラヴェルの音楽は極めてローカル(?)であり、ジャズなどポピュラー音楽のイディオムを取り込むのに対して(実に地に足がついている)、ドビュッシーの音楽はいわば煉獄的であり、中間生的な浮遊感に富む(地に足がつかないとはいわないが、そういう音調満載)ものだ。

1913年2月「現代手帖」誌に発表した「クロード・ドビュッシーの《映像》について」という評論は、主張が非常にとらえにくい文章なのだが、ここでもラヴェルはドビュッシーのことを逆説的に(?)極めて冷静に賞賛していることがわかる。

よくお分かりだろう。愚かしくも、〈春のロンド〉の素晴らしい魅力や絶妙な新鮮さになびいている諸君、あの輝かしい〈イベリア〉に、あの極めて感動的な「夜の香り」に、あのかくも新しく、かくも微妙な和声的壮麗さに、あの強烈な音楽性に、涙がこぼれんばかりに胸の締め付けられるのを感じている諸君、諸君は文士か画家にすぎない。そして諸君は、そうした用語が持つ軽蔑的なものを十分理解しておいでだ。私もまた、文士か画家にすぎない。そして私と共に、イーゴリ・ストラヴィンスキー、フロラン・シュミット、ロジェ=デュカス、アルベール・ルーセルの諸氏、そして新進ではあるが、無視できない作品を生み出している大勢の作曲たちもそうである。ただ、三作の歌曲と一作の小交響曲を発表しているガストン・カロー氏、まさに文芸および絵画作品によって名を知られたカミーユ・モクレール氏、そして全く何も生み出していないピエール・ラロ氏だけが音楽家であり、感性豊かな人物というわけだ。
「クロード・ドビュッシーの《映像》について」(1913)
~同上書P70-71

ドビュッシー:管弦楽のための「映像」(1905-08)
・ジーグ
・イベリア
 街の道と田舎の道
 夜の香り
 祭りの日の朝
・春のロンド
ピエール・モントゥー指揮サンフランシスコ交響楽団(1951.4.3録音)

サンフランシスコ響時代のピエール・モントゥーの録音は、どれもが素晴らしい。
音楽そのものが熱く、重心がしっかりしており、生命力滾るもので、巨匠の最も脂の乗った時期であることが明白だ。

ドビュッシーの管弦楽のための「映像」も野趣溢れ、エキゾチックで、音楽的で、そして何より地に足のついた音調で、感動的。

音楽には力強さが必須。
中でも「イベリア」の素晴らしさ!

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む