リッカルド・シャイーが何年か前に録音した「メンデルスゾーン・ディスカバリーズ」を聴きながら、スコットランド交響曲(ここに収められているのは1842年のロンドン稿というもので、一般に流布している版とは随分印象が違うけれど)はやっぱり稀代の名曲だなと独り思いに耽る。
メンデルスゾーンにマーラー・・・、ここのところの「ユダヤ」に関する話題、考察から、一方で「反ユダヤ」であったワーグナーについて少し考えてみる。確かに壮年期のワーグナーにはユダヤに対しての憎悪に近い思想を含めた著作があるし、例えば「マイスタージンガー」なども明らかにナショナリズムの最右翼的作品だといえる。しかしながら、どうも「指環」を生み出すあたりから彼の内部で何かが変化したのか、聴く者、観るものに伝えるメッセージが明らかに変わっているのも確か。最後の舞台神聖祝典劇「パルジファル」など、前奏曲にはメンデルスゾーンも「宗教改革」交響曲に引用した「ドレスデン・アーメン」が使われているし、敬愛したベートーヴェンと同じく、どうも神憑った「すべてをありのままに受容する」という考えについに行き着いてしまった感が受け取れる。
「ユダヤ」という形のないものに拘ること自体が実にナンセンスなのだが、逆に何千年と拘ってきた人類の浅薄さというか、そもそもそういう感情や思考に流されてしまうのが人間というものなんだなということにあらためて気づく。
ナチスの残忍な行為を起点にして、今でこそ「ユダヤ」に対しての迫害というものはなくなりつつあるのだろうが(少なくとも表上は)、世界のどこかに行けばいまだにそういう差別や区別が存在するのだろうな・・・、とも思ってみる。何ヶ月、何年も経過すれば風化するのが人間の記憶。同じことを何度も繰り返すのが人類の歴史。過去を振り返り、少なくとも同じ過ちを繰り返さないというのがひとりひとりに課された義務のように思うのだけれど・・・。
久しぶりに何もない休日だったので色々聴いた。クナッパーツブッシュによるワーグナーの管弦楽曲集(「パルジファル」前奏曲や「リエンツ序曲を収めたモノラルのロンドン盤)に、51年の「パルジファル」の一部、そして極めつけが「マイスタージンガー」の第3幕!
ドイツ精神をことさらに鼓舞する最終幕は気持ち悪いが気持ち良い(笑)。間違いなくコンプレックスの裏返しのように思うが、それがまた素直で素敵。これほど開放的で明るい作品って・・・。ワーグナー一世一代の大喜劇。クナッパーツブッシュにしては意外に大人しい録音であることが気になるが、そのオーソドックスさが最近は心地良い。それにしても第3幕だけで2時間弱。このオペラ、生で接しても最後まで寝ないで聴き通すのは難しいというが、今日のように一幕だけ聴いてみるのも乙なもの。2回も聴いてしまった。
さて、肝心の「ユダヤ問題」。これはどう考えても答がないように思う。どちらも正しいから。強いているなら、概念は違っても、人種や宗教を超えて人間として受容し合うという思考に行き着かねば何も変らないだろう。それこそ晩年のベートヴェンが行き着いた「第9」の世界。ちなみに、「マイスタージンガー」でワーグナーが本当に表現したかったことは単なる国家精神高揚などではなく、むしろナショナリズム糞食らえ、すなわち第9に通じる考えだったのかもしれない。
抱擁を受けよ、諸人よ!
この口づけを全世界に!
兄弟よ、この星空の上に
ひとりの父なる神が住んでおられるに違いない
おはようございます。
ワーグナー:楽劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」についても、私に大きな示唆を与えていただいたのは、前にも何度かご紹介しました、Kenichi Yamagishi さんの素晴らしく優れたサイトです。それを読んだ時、まさに目から鱗状態で、 さっそく、紹介されている森田安一 著「ルターの首引き猫 -木版画で読む宗教改革」(山川出版社)を私も入手し、読みました。
その部分の内容をご紹介します。
・・・・・・森田安一「ルターの首引き猫 -木版画で読む宗教改革」(山川出版社)という本に、ハンス・ザックス(1494-1576)が宗教改革期の最大の詩人として紹介されている。(p.201~)
彼は「ヴィッテンベルクの鶯」という説話詩を出版している。これは、まず前文に99行の散文でルター登場の経緯が簡潔に示された後、「目覚めよ」で始まる700行の詩からなっている。詩は3部構成をとり、第1部はアレゴリーを利用して次のように書き出される。
目覚めよ、夜明けが近づいた。
緑の野辺に小鳥のさえずりが聞こえる。
楽しく歌う鶯のさえずりが
その鳴声は山や谷を冴え渡る。
夜は西に沈みゆき
昼は東に昇りくる。
赤く燃える朝焼けが
どんよりとした雲間を破りくる。
これはまさしく、「ニュルンベルクのマイスタージンンガー」第3幕で歌われる民衆の合唱である。この歌詞は次のように続けられるのだ。
太陽の光がそこからのぞき
月の輝きを押しやり
いまや月は色あせ、かげとなった。
それ以前には月はそのきらめきによって
羊の群れの目をくらませ
彼らを牧人と牧草地から
そっぽをむけさせていた。
羊の群はどちらも見捨てて
月の輝きに導かれ
誤った道を荒野へと入り込み
ライオンの声を聞いて
彼に従っていった。
ライオンは策略を用いて
彼らを遠く荒野の奥深く導いていった
羊=キリスト教徒、太陽の光=正しい福音の教え、月の輝き=カトリックの教え、ライオン=ローマ教皇(レオ10世)、荒野=カトリックの制度ということなのである。この後、荒野に引きずり込まれた羊は、ライオンを助ける狼とヘビによって骨の髄まで食べられてしまう、というように話は延々と続くらしい。
私はこの楽劇が、中世のギルド制最盛期を舞台にしているように錯覚していた。しかし、ザックスの生没年をよく考えてみれば、実は既にルネサンス・大航海時代に突入した近世だったのだ。だからこそ、楽劇終幕での「古き良きドイツ文化が外国のがらくたにさらされている」というザックスの言葉が意味を持ってくるわけなのだ。・・・・・・
http://classic.music.coocan.jp/opera/wagner/nurnberg.htm
こうした知識を与えられ、さらに次の、これまた教わることの多い優れたサイト
http://seeds.whitesnow.jp/blog/2004/07/12-002312.html
での、
・・・・・・メンデルスゾーンはその後、「エリア」の作曲と上演、その後「キリスト」と「ローレライ」の創作に集中し、その最中に世を去る。しかし、彼の年齢を考えると、その先の題材として、ニーベルンゲン伝説を題材としたオペラ創作を念頭においていた可能性は十分にある。それが1840年時点以降の発想であることを考えると、ワーグナーとの会話や食事の場において、これらの作品の構想がテーマとなったかも、と考えるのは私の妄想が過ぎているのだろうか。
未完や未着手となった「ローレライ」や「ニーベルンゲン」そして「キリスト」。その後ワーグナーが「ニーベルンゲン」の構想を練り始めるのは1848年である。そして、彼の最後の作品は、キリストの受難が裏テーマ?である「パルジファル」。この二人の作曲家の間に不思議な因縁を感じてしまう。・・・・・・
というような鋭いご指摘を目にすると、私も、俄然メンデルスゾーンとワーグナーが一本の線で繋がるように思えてきます。
そうした観点で、もう一度、メンデルスゾーン:交響曲第5番「宗教改革」を聴き直したくなりました。
[…] 大岡昇平氏の言う「性交音楽」ワーグナーは20世紀前半のドイツ第三帝国において広告塔の役目を果たしたが、そもそもワーグナー自身が反ユダヤ主義を標榜していた時期があり、そういう意味では根本的に思想が一致していたことは否めず、ナチスに上手く利用されたというのも致し方ないこと。 歴史を大きな視点で捉え、それらのことはドイツという国がそもそも潜在的に持っていたコンプレックスというものに起因しているのでは、と考えてみた。ヨーロッパの中では辺境、田舎であったドイツという国は、どういうわけか18世紀以降音楽的に非常な発展を遂げ、いつのまにかイタリアを抜き去り一大音楽大国にのし上がった(あくまで私見だが)。そう、ワーグナーが「マイスタージンガー」でドイツ精神、ドイツ芸術を高らかに歌わせた背景には実にイタリアを含めたラテン諸国に対する劣等感が渦巻いていたのだと想像するのだ。それが20世紀になって、ヒトラーがユダヤ系の音楽や無調をはじめとした現代音楽を否定しだしたものだから、何百年と脈々と引き継がれる「自信のなさ」をかえって強めてしまったようで、何とも滑稽に思えてならない。少なくともベートーヴェンやシューマン、ブラームスを輩出した国であるならば完全な音楽大国なのだから、あえて「ドイツ精神」を歌う必要はなかったのだ。 シェーンベルクやヒンデミットを否定したことはまだしも、そもそもメンデルスゾーンやマーラーの音楽を禁止したことは致命的。あるいは「退廃音楽」と称し、当時の才能を持った音楽家を根こそぎ葬ったことも芸術的先見性のなかったことを認めざるを得まい。 […]
[…] 7年前、クナッパーツブッシュの「マイスタージンガー」について書いたとき、コメント欄で興味深いやり取りがあったことを思い出した。 […]