「間」

暑い初夏の一日、太陽が沈むか沈まぬかという黄昏時に、独り静かに大音量で聴くボサノヴァは、火照った身体を冷やし、乾き切った心に潤いを与えてくれる。そう、これはたった独りでの儀式でもある。邪魔をするものが何もなく、ただひたすらに「音」に耳を傾ける。軽い食事と一杯のビールと・・・(笑)。
昨日、ある方から「落語の話術」(野村雅昭著)という書籍を薦められた。この本から落語においての「間」の重要性を教わり、それがほかのすべてに通じているということを実感されたのだそう。なるほど、我々が生きていく上でこの「間」がいかに大切かというのは僕もセミナーなどを通じて口を酸っぱくして語っていることだったからとても納得した。「場」の空気を読むということもそう。ともかくすべては「相手があって」のこと。人の「間」の力である「人間力」をいかに鍛えるかの大きなヒントにもなった。そういえば、世の中に存在する一流のものはどんなものでも「間」の取り方が絶妙。音楽然り、文学然り、あるいは絵画もそう。人が普段無意識にやっている「呼吸」というものの中にその真髄が隠されている。

Antonio Carlos Jobim:Tide

“Wave”に続く、インストゥルメンタル・ナンバーだけで構成されたジョビンの傑作イージーリスニング・アルバム。侮るなかれ。カルロス・ジョビンの「間」を聴くべし。ここのところずっと考えていた。どんな音楽でも「間」、すなわち休符に着眼しながら聴いてみると面白いということ。例えば、CDひとつとってみても、トラックから次のトラックに移る数秒の「間」。すぐれた録音ほどこの「間」までが計算されつくしている。もちろんクラシック音楽の名曲といわれているものの多くもこの「パウゼ(Pause)」が絶妙なのである。その最たる例がブルックナーの全休止。演奏の観点からはワルターがよくやったいわゆる「ルフトパウゼ」。

音の無い瞬間が、音楽に一層の昂揚感を与えるものなのか。とすれば、ベートーヴェンの晩年の名曲群が生まれた背景には、楽聖の難聴という病気が自ずと関わってくることになる。心で目で見たり、心の耳で聴いたりすることは、ひょっとすると人間の感性を鍛える意味で実に重要な要素なのかも。イメージ力って大切・・・。

ところで、件のジョビンのアルバム。”Wave”の緩やかなアンニュイさと相違して、意外に攻撃的なのが興味深い。1970年の録音だからだろうか・・・。


2 COMMENTS

雅之

こんばんはいつかもコメントで触れましたが武満徹は自身の「作曲ノートノヴェンバー・ステップス」についてのなかで「イルカの交信がかれらの鳴き声によってはなされないで音と音の間にある無音の間の長さによってなされるという生物学者の発表は暗示的だ」といいましたカルロス・ジョビンの「間」ですかなるほどですね確かにクラシックでなくても間に注目しながら聴いてみると興味深いかもしれませんねところでマーラーの交響曲第2番「復活」は第1楽章と第2楽章の間に「5分以上の休憩を挟むように」と作曲家自身が指示しているのを忠実に実行している現代の指揮者はいませんがあれはマーラーの時代の聴衆は今と違い「間」がもったのでしょうかね逆にベートーヴェン交響曲第5番やシベリウスの交響曲第2番の第3~4楽章みたいに楽章間で「間」を置かず「アタッカ」というケースがありますよねメンデルスゾーンの作品ではアタッカが多用されているそうですね私も今夜は実験的に「間無し」でコメントしてみましたが「間抜け」ですね(笑)よくわかりましたおわり
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%AB

返信する
岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
確かに、「間」がないと間抜けですね(笑)。
「間」、すなわち「呼吸」(句読点も呼吸ですよね)がいかに大事かということをあらためて実感しました。

>間に注目しながら聴いてみると興味深いかもしれませんね
同感です。

>メンデルスゾーンの作品ではアタッカが多用されているそうですね

そうですね。意外にメンデルスゾーンはせっかちな性格だったのかも。先日、愛知とし子による「厳格な変奏曲」を聴いたのと、アタッカが多いということから想像しました。幼い頃から抑圧されて育つと「切迫的」な性格になるのかもしれません(笑)。

返信する

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む