「四季の色~堀明子詩集」をひもときながら、とても10歳やそこらの年齢の子どもが書いたとは思えない繊細な感性と、それを文字にできる才能にあらためて驚かされる。子どもの感覚ほど鋭く、突拍子もない感じ方の中に大人が忘れかけている大切な「人としての常識」が垣間見ることができるのだから、どんな年齢になっても幼少の頃のあの感覚を絶対に失っちゃいけないと思った。
夕食時、偶然テレビをつけたらマイケル・ジャクソンの映画「キング・オブ・ポップの素顔」公開を記念して(亡くなってちょうど1年とのことだ。月日の経過は早い・・・)ドキュメンタリー番組をやっていた。2時間釘付けでついつい観てしまった(笑)。彼は本当に愛に溢れる素晴らしいアーティストだったことがわかる。才能豊かで、心のある人ほど早く亡くなってしまうものだ。享年50歳とはいえ、まだまだ半ば。今更ながら残念でならない。
マイケルは映像の中で語っていた(正確な表現は忘れたが)。「どんなことがあっても子どもの時のような純粋で天真爛漫な感性を忘れちゃいけない」と。彼の音楽はいつまでも瑞々しい。ちょうど堀さんの詩が永遠の命をもつように、今後もずっと愛し続けられることだろう。
フアン・クリソストモ・デ・アリアーガ。19歳で夭折したスペインの作曲家である。わずかな数の作品しか現存しないが、どれもが魅力的な佳作で、ハイドンやモーツァルトを彷彿とさせるセンス満点で魅力的な旋律が散りばめられている。
1826年に肺病が原因で亡くなった彼だが、時期的にはベートーヴェンが没する前年であり、聴いたところの印象では特別な革新性はない。おそらくもう少し、というより彼が一般的な寿命をもっていたらどんな作品を世に問うたのだろうかと想像するととても興味深い。クアルテート・カザルスの演奏は残念ながらほかに知らないが、少なくともこの音盤を聴く限りにおいては4人のバランスがとれ、将来性のある団体のように思える。いろいろと聴いてみたいものだ。
アリアーガ:弦楽四重奏曲集
・弦楽四重奏曲第1番ニ短調
・弦楽四重奏曲第2番イ長調
・弦楽四重奏曲第3番変ホ長調
カザルス弦楽四重奏団
アリアーガを聴きながら堀明子の少女期の詩を(小学4年生時の作品らしい・・・)。見事だ。
雨だれの音が
まどの外に聞こえる
まどを開けてみると
気もちのいい風が
入ってくる
さし出した手の平に
雨つぶが落ちて来た
あしたは雨かな
かすかな絶望感
てるてるぼうずを
作ろうかな
そうだ
とてもすてきな
てるてるぼうず
作ろうっと
おはようございます。
「四季の色~堀明子詩集」は、購入し、これを機に読んでみます。御紹介の小四の時の詩も純粋で素敵ですね。気に入りました。感謝です。
>マイケルは映像の中で語っていた(正確な表現は忘れたが)。「どんなことがあっても子どもの時のような純粋で天真爛漫な感性を忘れちゃいけない」と。彼の音楽はいつまでも瑞々しい。ちょうど堀さんの詩が永遠の命をもつように、今後もずっと愛し続けられることだろう。
昨日は早朝から高一の息子と二人で、サッカーの日本対デンマーク戦で大盛り上がり・・・、夜は家内と娘も一緒に再放送観て、再度大盛り上がり。
チームの一体感が、家族を、日本を一つにする・・・、何て素晴らしいことかと思います。
「岡ちゃん」最高!!(「岡ちゃん」は岡ちゃん『岡本さん』の母校の先輩ですよね・・・笑)
本田も岡崎も24歳、私と同じく年男です(二回りも離れていますが・・・爆)。強引なこじつけでも嬉しい。しっかりと世界を驚かせてくれました。とにかく全部最高です。次も勝って欲しいです。
>マイケルは映像の中で語っていた(正確な表現は忘れたが)。「どんなことがあっても子どもの時のような純粋で天真爛漫な感性を忘れちゃいけない」と。彼の音楽はいつまでも瑞々しい。ちょうど堀さんの詩が永遠の命をもつように、今後もずっと愛し続けられることだろう。
「ワールドカップ」「アフリカ」「マイケル・ジャクソンの一周忌」とくれば、もう、あの歌しか私にはありません。
ウィ・アー・ザ・ワールド
作詞作曲:Michael Jackson
Lionel Richie
今こそ
あの声に耳を傾ける時
世界が一つにならなきゃいけない時
死にかけている人々がいる
命のために手を貸す時
それこそが何より素晴らしい贈り物
このまま気づかない振りはできない
誰かがどこかで変化を起こさなきゃ
僕らはすべて 神のもと 地球家族の一員
そして真実は 愛こそが僕らに必要だってこと
僕らは仲間
同じ地球の子
明日を輝かせるんだ
さあ 分かち合いをはじめよう
選べるんだよ
僕ら自身の命を救うために
そうさ より良い明日を作るんだ
君と僕とで
真心を送り
一人じゃないと伝えよう
彼らが力強く自由であるために
神が石をパンに変えて示したように
僕らも救いの手を差し伸べるべきなんだ
打ちのめされてしまった時は
なんの希望も見つからない
でも 大丈夫なんだと信じられるなら
必ず変えることができるんだ
みんなで力を合わせれば
(昨年に続き、senriさん + ゆうこさんによる訳詞を下のサイトより・・・、これは何回読んでも、じつに素晴らしい訳詞だと心から感服しております)
http://dogaeigo.blog118.fc2.com/blog-entry-58.html
DVD
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3630323
では、おやすみなさい。
>雅之様
おはようございます。
日本、勝ちましたねぇ。素晴らしかったです。
実況中継は早朝で観ることができなかったのですが、ダイジェスト版で観ました。
昨日の夜もサッカーを観ようとチャンネルをつけたらマイケルをやってまして・・・。ついつい見入ってしまったのです。
昨日は大学の授業だったのですが、ワールドカップを観ていなかった学生が意外に多いことに吃驚しました。2ヶ月ほど前は本田の名前すらほとんど知らなかったのです。(彼もこれで一気に有名になるだろうと思いますが)
>チームの一体感が、家族を、日本を一つにする・・・、何て素晴らしいことかと思います。
同感です。サッカーに詳しくない僕でも興奮してしまいます。最高です!
「ウィー・アー・ザ・ワールド」!!
あー、懐かしい。
あの頃は純粋でした(笑)。
マイケル・ジャクソンとグレン・グールドは薬物依存が原因で、ともに50歳でこの世を去りました。そうした面は同じであれど、マイケル・ジャクソンは悪い取り巻きがいたこと、グレン・グールドは薬物依存をやめさせるような人物がいなかったことという面では異なっています。
もっとも、グレン・グールドはちょっとしたことでも病気ではないかと思って、医者に行っては、医者に対する態度の悪いことは有名でした。すぐに見てくれ、治してくれということは毎度のこと、自己流に医学を学んでは薬を出してほしいなどと言っていました。また、他の医者へかかっては病気ではないものの薬を出してもらっていたという有様でした。これでは医者にせよ、いくら有名人でもご免こうむりたい患者だっただろうと思います。それが命取りとなってしまいました。これも精神障害が原因です。母親から生涯自立できず、様々な社会不適応になり、恋愛でもルーカス・フォスの家庭を壊すようなことをしたりといった不名誉な事件まで起こした挙句、薬物依存がひどくなって悲惨な最期となりました。あまりにも哀れな死に方だったと感じています。
>岡本様・畑山様
このブログ内でのお二人のグレン・グールド論、勉強になります。
私はグールドについては、お二人ほど詳しくないのですが、10年ほど前に始めて読んだ「2032年のグレン・グールド」《(坂本龍一、浅田彰 両氏の対談)、『ユリイカ』1995年1月号「特集=グレン・グールド」→ 私が昔書店で購入し今も手元にあるのは『文藝別冊 総特集=グレン・グールド:バッハ没後250年記念』河出書房新社、2000 》は、とても興味深い内容でした。
お二人は、読まれた時、どんな御感想をお持ちになられましたか? ぜひとも、伺いたいです。
因みに私は、グールドの演奏、曲によって濃淡はありますが、総じて極めて高く評価しており、バッハの一部の曲の音盤は、無人島に持って行く候補にしたいくらいなのです(笑)。
< 2032年のグレン・グールド >
浅田 グレン・グールドの人気は衰えを知らなくて、とうとう最後の「ゴールドベルク変奏曲」のLDも出た、そういう嬉しいかぎりなんだけど、あまり喜こべないこともある。「グレン・グールドをめぐる32章」っていう映画とかさ。
坂本 あれはひどい。あんなことをしてもらっては・・・。私のグールドがメチャメチャになってしまった(笑)。
浅田 どこで見たの?
坂本 94年の1月にカンヌで映画祭の音楽版みたいな<ミデム>というのがあったわけ。そのフェスティヴァルのなかに、ヴィデオ・クリップ賞とか音楽映画賞とか音楽TV番組賞とかいろいろな賞があって、それは世界中からノミネートされてくれるんだけど、その審査委員長に選ばれちゃって。
浅田 審査委員長のマズいところは、自分を選べないことだよね。
坂本 そうなの(笑)。それで、今年の優秀音楽家とか、そういうのも選ばなくちゃいけないんだけど、なぜか自分は入っていないの(笑)。審査員は全部で十二人いて、やっぱりカンヌのフェスティヴァルだから仏語圏の人が多くて、その他アメリカ人が二人、カナダ人、アフリカ人、そしてなぜか日本人の私が審査委員長で、まとめなきゃいけない。大体、議論が白熱してきて興奮すると、すぐ皆フランス語になっちゃうから、「困る! 英語で喋りたまえ」とか、大きな声で言わなきゃいけない(笑)。そこでノミネートされてた一つがグレン・グールドの映画なんです。
浅田 あれってカナダの映画だよね。
坂本 そう。初めて観て、グールドに多少とも愛情をもつ者としては、それをメチャクチャにされたという感じで、もう十二人の審査委員のなかには、「映画の作り方がクリエティヴで良い」とか、馬鹿なことを言う奴がいるんだよね。
浅田 じゃあ、評判は良かったわけね。委員長としてはつらいところだな。結局、賞をあげたの?
坂本 うん、何か映画制作のアイディア賞みたいなものはあげたんじゃないかな、民主的な審査だから(笑)。僕一人で「ヤダ、ヤダ」と反対して・・・。
浅田 「世間は許しても、私は許さない」と(笑)。
坂本 ついでに言っておくと、音楽ヴィデオ賞のなかに「鼓童」かなにかがノミネートされてて、それはもう僕以外全員にワーッと受けちゃうわけ。まあ、ヴィデオとしてはかなり良く出来てるんだけどね。
浅田 でも、あまり見たくないね、ああいうのは。
坂本 でしょ? で、私は審査委員長の特権で演説して、「これは日本の天皇制を支えてきた神道に基づいた音楽である云々」とぶって、「冗談じゃない!」っ(笑)。そういうスピーチはしたんだけど、一蹴されて、それも賞を獲ったね。
浅田 世の中って、そんなもんだよね(笑)。でもグールドって、とにかくメディア時代の最初のアーティストというか、膨大なレコーディングと共にすごい映像記録が残ってて、しかもそれが全部いいんだから、あの映画みたいにそれをコピーしようという精神がそもそも理解できない。
坂本 しかも、実際のドキュメンタリーを、同じようなシチュエーションで再現するわけでしょ。
浅田 うん、俳優を使ってね。
坂本 初期のバッハの「イタリア協奏曲」の録音風景だっけ?
浅田 1959年の「オフ・ザ・レコード・オン・ザ・レコード」の「オン・ザ・レコード」のほうね。
坂本 ニューヨークの、もう今はないコロンビア・スタジオでの初期のレコーディングのシーンを、そっくりそのまま真似して俳優が演っているという(笑)。
浅田 だいたい、もとのドキュメンタリーが素晴らしいからねえ・・・。ちょっと逆説的だと思うのは、一方では、彼はものすごく知的な人間で、コンサートなどという野蛮な儀式はたまらないというので、録音スタジオに籠もって、できるかぎりクールに分析的にやろうとするわけじゃない? ところが、実際に自分がそこで弾いている姿というのは、ああやって映像を観ると、もうほとんど身体全体でエクスタシーに浸るというようなね。
坂本 ピアノとセックスする、みたいな。
浅田 ものすごくエクスタティックでしょう。あの極端な両面性って面白いよね。
坂本 で、非常にカンタービレでしょ。彼ほど作曲理論を知りぬいてて、しかもピアノ演奏という表現でそれを形づくることの出来るピアニストって、今までみたことがないわけですよ。僕は子供の時からそう思っててた。初めて聴いたのは小学5年くらいで、最初の「ゴールドベルク変奏曲」だったけど、それはちょうど僕が作曲を習い始めた頃にグールドを聴き始めたものだから、まさに作曲理論そのものを聴いているっていう感じだった。それが、実際に映像を観ると、ものすごく情熱的というか、カンタービレの人なんで、ねえ・・・。
浅田 実際に歌っているしね(笑)。
坂本 そう、歌っているんですよ。その両面性というのは、すごく面白い。作曲理論をただ正しくピアノで弾くだけだったら、今はコンピュータでやれば出来ちゃうんだよね。動機がはっきり聴こえるようにとか、そういうふうに。だけど、それだと面白くないわけでしょ。
浅田 たんなる知性だけじゃなくて、それがそのまま身体化してるっていうのかな。ニーチェの『悲劇の誕生』で、知的なものはアポロン的、情念的なものはディオニソス的と呼ばれるわけだけど、グールドの演奏には逆説的にいえばアポロン的エクスタシーみたいなものがあるわけじゃない? つまり、ものすごく知的なことをやってるんだけれども、それがそのままエクスティックであるというふうな、不思議な交錯があって、それで彼の演奏している姿から目が離せないんじゃないか。なのに、それを俳優が真似するなんて(笑)。
坂本 しかも“苦悩する音楽家”みたいな演技でしょ。それがタマンナイよね。グールドを単純に19世紀的な“苦悩する音楽家”に描いてるというのは、とてつもなくイヤラシイ。そんなんじゃないって。
浅田 19世紀的なパラダイムでいうと、一方にはスコラ的な分析があり、他方には苦悩とかそれを反転したエクスタシーとかがあるんだけれど、グールドの場合、極めて分析的にやっていて、しかもそれがそのままエクスタティックになっていくという、そこが面白いわけでしょう。
坂本 我々は目にすることは出来ないけれど、もしかしたらヴェーベルンなんかも案外エクスタティックにピアノを弾いていたかもしれない。
浅田 シェーンベルクだってそうでしょ。
坂本 うん、シェーンベルクはまさにそうだね。あの音楽を聴けば分かる。
浅田 それに、グールドが好んで弾いたベルクね。表現主義的なパトスを持った人がものすごく分析的にやってたというか、逆に言えば分析的な構造の中にもすごいパトスがあるという。
坂本 そうですね。今、ふっと思ったんだけど、例えばモーツファルトの「ジュピター交響曲」の最終楽章、あれは非常に優れた対位法で精巧に書かれてあるんだけれども、すごく速いモルト・アレグロで、実際の演奏はかなり汗をかいてやらないと出来ない。これもアポロン的なエクスタシーだね。
〈指だけで弾くフォルテ〉
浅田 坂本さんは小さい頃グールドを最初に聴いたとき、「これは凄い!」と思った? その頃、ほかに気に入ったのはだれ?
坂本 小学校5年くらいから聴き始めたんですけど、グールドと、すごくおかしいけれどバックハウスが好きだった。
浅田 “鍵盤の獅子王”と呼ばれたあのバックハウス? (笑)
坂本 得に後期の3つのピアノ・ソナタの演奏。たまたまそのレコードを持っただけなんですけどね。それフルトヴェングラー。彼の指揮は、ベートーヴェンでも何でもいんんだけど、楽章から楽章へほとんど切れ目なしに繋がっていくでしょ。あれには僕はすごくロックを感じたんです(笑)。同時期にビートルズなんかも聴きだした頃だから、すごくカッコ良かった。パンクだった。
浅田 バックハウスは、僕も子供の頃にベードヴェンをよく聴いたな。妙な情念が介入しない、安定した造形感があるじゃない? グールドはシュナーベルが好きだと言ってたけど、シュナーベルとかバックハウスみたいな、ああいう古いものの安定した造形感が全然違ったかたちでグルードのなかに入ってる感じがする。他方、フルトヴェングラーというのは対極でしょう? つまり、圧倒的なパトスの劇が舞台で演じられてて、オーケストラもガーッと引きずられていくわけだし。
坂本 それが滑稽で面白いんですよ。
浅田 それがパンクってことか。
坂本 他方、僕が嫌いだったのはケンプで、最も嫌いだったのはルービンシュタイン。ルービンシュタインとジャズのオスカー・ピーターソンって、ピアノ弾きとしては本当に最低の部類だと思うわけ(笑)。まず、音が大きくて、下品。グルードは音が小さいよね。タッチが全部、チェンバロを弾くようにスタッカートで弾いていくでしょ。
浅田 うん、すごく清潔な感じがするよね。ルービンシュタインっていうのは、なんか不潔。
坂本 そう、脂ぎっている。
浅田 オスカー・ピーターソンもそうだけど、とにかく音数がやたらに多く聴こえる。ところが、グールドの場合、岡田敦子が書いてて、なるほどと思ったけど、バッハなんかがクリアなのは当然として、スクリャーピンですごくクリアで、確かにどんどんクレッシェンドしているにもかかわらず、それは音の空間が拡がっていくようなクレッシェンドだから、音圧が音をグシャグシャに潰して汚くすることがないっていうの。彼女によると、それは録音技術にもよるらしいんだけど。
坂本 それから、たぶんペダルの使い方だと思う。結局ペダルを使うと、何を弾いても音は鈍るからね。僕が好きなレコーディングのなかでは、ヴァーグナーの序曲を自分で編曲してピアノで弾いているのがあるんだけど、それはヴェールベルンの音楽のように清潔に聴こえるという(笑)、非常にすごいものなんですよ。あれもやっぱりペダルの使い方かもしれないな。で、肉声がよく聴こえるという。
浅田 一つはペダルをすごく節約するというか、出来るだけ使わない。もう一つは、腕のほうも、肩の力を全部かけると重くなっちゃうから、すごく低い椅子に座って手首から先だけで弾いているでしょ。
坂本 僕がルービンシュタインがなぜ嫌いかというと、姿勢がいいわけ(笑)。ということは上半身の力が全部、鍵盤にかかるわけね。すると、もう割れんばかりに強い音が出るけれども、汚い音になる。で、グールドは、ほとんど指の力で弾いている。だから音が非常に清潔でクリアで、アタックとそれから切れるところがはっきり聴こえる。その違いはあるね。
浅田 いわゆる“良い姿勢”というのは、結局、19世紀型のコンサート・ピアニストの姿勢だからね。要するに、大きなホールで、デカい音で聴衆を端々まで制圧するための弾き方だから。
坂本 リストがそうだね。
浅田 大体、本当に優れたピアニストって、そういう意味では“正しい弾き方”をしない人たちなんじゃないの? コンサート型の人ですら、例えばホロヴィッツなんて、無茶苦茶な弾き方をしているわけで、ほとんど指で鍵盤をはじいているでしょう? それがすごくきれいな音になるわけだからね。
以下略
(一から打つと疲れますのでm(_ _)m
下のサイト『毒書のススメ』よりペーストし、原本と照合し、明らかな誤字・誤転載のみ修正しました。同サイトに感謝いたします)
http://blogs.dion.ne.jp/tacthit/archives/4369580.html
>畑山千恵子様
こんばんは。
グレン・グールドとマイケル・ジャクソンは確かに共通性ありますね。ただ、ポップスとクラシックというジャンルの違いもあるのでしょうが、少なくともマイケルは聴衆に喜んでもらおうというショーマンシップに長けていたのに対して、グールドはやっぱり内に内にとこもっていくタイプだったことが大きな違いだと思います。しいて言うならマイケルは人間好き、グレンは人間嫌い・・・というような。
マイケルはあまりに純粋で、スキだらけだった。
一方、グレンはあまりにスキがなかった。
そんなように僕には思えます。
>雅之様
こんばんは。
グールドの音楽については雅之さんとまったく同意見ですが、人間グールドについては「?」を感じることも多いです。
ジャクリーヌ・デュ・プレについて映画化された時も同じような反響があったように思いますが、僕は音楽について理解しようとする時、それを演奏する演奏家の人間性、生育バックグラウンドも大切な要素だと思っているので、グールドの薬物依存や母親から自立できなかった事実は非常に興味深く、映画の描き方がどんなであれ寛容になれますね。
まぁ、坂本龍一氏の気持ちはわからないでもないですが。
それと浅田さんの言う「アポロン的エクスタシー」という表現はぴったりですね。母親への情念をずーっと抑圧してきたあたりにグールドらしさ、グールドにしか表現し得ない音楽があったんだと思います。
だから、グールドがどんなに人間的に最低の男だったとしても、それがゆえに最高の音楽を残せたんだと思えるのです。
直接友人だったら大変だったでしょうが、彼が雲の上の人で良かったです(笑)。