鳥羽泰子のモーツァルト「ピアノ・ソナタ全集」第2巻を聴いて思ふ

mozart_sonatas_2_yasuko_toba269集中豪雨に遭った。
偶々中にいた僕は濡れ鼠にならずに済んだ。
午前の厳しい日差しと熱を持った大地を冷やす目的であったかのような突然の激しい雷雨。
自然の移ろいと、自然の神秘と、・・・僕たちすべてが恩恵の中にあることをあらためて思った。

できるだけ音の少ない、静かな音楽を求めた。
これ以上切り詰めることは不可能だと思われる音数で、天衣無縫と言える拡がりを持つ音宇宙を創造したモーツァルトのソナタを聴いた。後にも先にも存在しない、そして先輩のハイドンから後輩のベートーヴェンへと連なる流れとも明らかに異なるヴォルフガング・アマデウスならではの孤高の世界に身を委ね、もの思いに耽るとき、得も言われぬ幸福感が漲る。それはとても不思議な体験。

1777年11月8日付、マンハイムからのモーツァルトの手紙にある「ぼくは音でなら自分の感情や考えを表すことができます。ぼくは音楽家ですから」という言葉に触発され、小林秀雄は書く。

彼の死に続く、浪漫主義音楽の時代は音楽家の意識の最重要部は、音でできあがっているという、少なくとも当人にとっては自明な事柄が、見る見る曖昧になっていく時代とも定義できるように思う。音の世界の言葉が侵入してきた結果である。個性や主観の重視は、特殊な心理や感情の発見と意識とを伴い、当然、これはまた己の生活経験の独特な解釈や形式を必要とするに至る。そしてこういう傾向は、音楽というものの豊富な精緻な使用なくては行なわれ難い。したがって、音楽家の戦いは、漠然とした音という材料を、言葉によって、いかに分析し計量し限定して、音楽の運動を保証しようかという方向を取らざるを得なくなる。和声組織の実験器としてのピアノの多様で自由な表現力の上に、シュウマンという分析家が打ち立てた音楽と言葉との合一という原理は、彼の狂死が暗に語っているように、はなはだ不安定な危険な原理であった。
小林秀雄著「モオツァルト」(角川文庫)P14-15

果たしてロベルト・シューマンが音楽と言葉の合一を遂げたのかどうかは別にして、言葉が音楽を一層曖昧なものにしたという指摘には首肯する。
余計な力が入ってしまうのも、流れに身を委ねることができないのも、言葉による余分な思考があるお陰。もしも考えることをやめ、ただ無心に音楽というものに身を預けられるなら、人間の頭脳はもっと開かれるのかもしれない。

ただひたすらモーツァルトに浸る。

モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集第2巻
・ピアノ・ソナタ第6番ニ長調K.284「デュルニッツ」
・ピアノ・ソナタ第7番ハ長調K.309
・ピアノ・ソナタ第8番(旧9番)ニ長調K.311
・ピアノ・ソナタ第9番(旧8番)イ短調K.310
鳥羽泰子(ピアノ)(2004.10.7&8録音)

深夜にごく小音量で聴くことをお薦めする。
ヴォリュームを絞った鳥羽泰子のモーツァルトは実にニュアンス豊かに響く。ほんの少しの恣意性を秘めながらも、それこそマクロにもミクロにも拡大縮小する粋。興味深いのは、どの曲もほとんどリピートが省略されている点。おそらくそれは賛否両論だろうが、煩わしいリピートがなく、可憐な音楽があっという間に過ぎ去ってゆく流れの妙にむしろ快感を得る僕などは願ってもいない策。
繰り返し聴くたびに惹かれるこのアルバムの真髄はK.310にある。この短調の名曲が、決して激烈に、また重くなり過ぎず、むしろ清澄な響きを持つモーツァルトの喜びとして表現され得ているところが素晴らしい。第1楽章アレグロ・マエストーソ第1主題の語りかける美しい調べに思わず唸る。また第2楽章アンダンテ・カンタービレ・コン・エスプレッシオーネの愛らしい囁きに震え、終楽章プレストの、ゆったりとした足取りの、堂々たる音楽にピアニストのモーツァルトへの自信が垣間見られる。

意識すべきは言葉でなく、やっぱり音なのである。

 

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