コルトレーンのラスト・ライブ録音

John Coltraneは1967年7月17日に肝臓癌のため亡くなっているが、その日も今日のように暑い一日だったのだろうか。
The Beatlesと同じく、短い活動期間の中で驚くほどの進化を遂げたのがコルトレーンの音楽だが、晩年のものはそれこそ一部の「通」だけが享受し得た、調性が破壊されたぶっ飛びの作品が大半を占めた。ライブなどでも1曲の演奏時間が極限まで伸び、それこそ40分や50分の間延々と吹き続けるパフォーマンスは一般のジャズ・ファンにとってはひょっとすると苦痛ものだったかのかもと、実況録音盤を聴きながら思った。
死を覚悟したあと1分たりとも時間を無駄にするわけにはいかないと、一層自身の音楽を表現しようと無心でサックスを吹いている姿に合わせて「混沌」という文字も浮かび上がる(が何だかわからない、必死の形相で何かを訴えかけようとしているのはわかるが、もう少しゆっくり話そうよ、落ち着いて意見を言おうよ、なんていう感じにとれなくもない・・・。(笑)

しかし、それがいつの間にか癖になるのだからコルトレーン・ミュージックというのは不思議なもの。例えば10年前に突如リリースされた最後のライブ録音。”Ogunde”が28分25秒、そしてコルトレーンの代名詞でもある”My Favorite Things”が34分38秒というタイミング。解説書によると、この日は16:00からと18:00からの2回公演だったらしいが、ファースト・セットが上記2曲、セカンド・セットが”Tunji”と”A Love Supreme Part1- Acknowledgement”で、病身を振り切りコルトレーンは渾身の力を込めて演奏したという。それは実際にこの録音を聴いて明らか。音割れも含めて音質は決して良いとは言えないが、死の3ヶ月前のコルトレーンの捨て身の壮絶なパフォーマンスが見事に体感でき、大音量で耳にすると実際に会場であるオラトゥンジ・アフリカ文化センターにいるような錯覚に襲われもする。

John Coltrane:The Olatunji Concert(1967.4.23Live)

Personnel
John Coltrane(tenor sax, soprano sax)
Pharoah Sanders(tenor sax)
Alice Coltrane(piano)
Jimmy Garrison(bass)
Rashied Ali(drums)
Algie DeWitt(Bata drum)
Jumma Santos(percussion)

コルトレーンの作品は演奏の度に変化する。ボブ・ディランのパフォーマンス同様余程の玄人でない限り一体それが何の曲なのかしばらくわからないことが多い。”My Favorite Things”然り(1961年のエリック・ドルフィーを伴ったパフォーマンスは最高!)。何せ30分超の演奏である。最初の6,7分のパーカッションをベースにした前奏から引き込まれるが、ようやくトレーンのサックス・プレイが入る頃でもまだまだ何の音楽かはっきりしない。とはいえ、奏でられる旋律に耳を凝らすと、あの有名な旋律が聴こえてくるのである。極めて細かく裁断され、あらたに継ぎ接ぎされたようないわば”My Favorite Things”の主題をもとにしたコラージュか、あるいは変奏曲かというところ。

これを当日会場で聴いていた人々はどんな気持ちで聴いていたのだろうか。卒倒、失神・・・、あるいは逆に耳を塞いでいたか(笑)。異常なテンションで命の最後の炎までを使い切るかのようにそれがまったく途切れることなく1時間が過ぎ去ってゆく。
暑苦しくもあり(笑)、ある瞬間肌寒ささえ感じさせてくれる鬼気迫る様子が完全収録された傑作(?)と言っておこう。

1967年7月15日、ニューヨーク、ロングアイランドの自宅で吐血。16日地元のハンティントン病院へ担ぎ込まれたがすでに意識不明。死線を彷徨い、翌17日午前4時逝去。享年なんと!40歳・・・。若過ぎる・・。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

ご紹介のCDも未聴ですし、コルトレーンについて不勉強のままですので、「M/D マイルス・デューイ・デイヴィスIII世研究」(菊地 成孔 ・ 大谷 能生 (著) エスクアイア マガジン ジャパン)255~256ページを、再度引用し考えます。
http://classic.opus-3.net/blog/?p=2492

・・・・・・読む者に無限の物語を生みだすであろう5声以上の対位法の中で、とくに筆者が抽出したい点は「インド音楽とアフリカ音楽のモーダリティの違い→モダン・ジャズというフォーム/フィギアにとって、どちらが親和性が高いか」という、ブラインドされがちな、しかし非常にシンプルな問題である。
北インド古典音楽の、とくに整数的なリズム構造は、旋律構造として名高いラーガに対し「ターラ」と言い、こちらは名称すらあまり知られていない。ターラの構造は積分的。つまり「基礎単位を最小の2と3に設定し、それの積によってあらゆる偶/奇数の整数秩序を生み出す」傾向が強く、アフリカ民族音楽のリズム構造に一貫してみられる微分的、つまり「基礎単位を最大の1と設定し、それを細分化しつつ複数の整数秩序を併存(ポリリズム)させる」ものとは対称関係にあると言って良い。(もちろん厳密に区別されるものではないが)前者は都市音楽としてのロック、とくにプログレと呼ばれる緊張系/非弾性的な変拍子音楽を生み、後者はジャズ~ファンクという弛緩系/弾性的なポリリズム音楽を生んだ。リズムの構造にもコーダリティ/モーダリティは存在するというのが筆者の説だが、これも稿を改めるとしても、こうした視点からも、晩年のコルトレーンがどれだけの倒錯/分裂を生きたかが浮き彫りになる。
コルトレーンは(主にエルビン・ジョーンズとの音楽的な共鳴というかたちで)シャンカールに傾倒する以前からすでに、高いアフリカ性を獲得しており、アフロ・アメリカン芸術としてのモダン・ジャズ、とくにモード・ジャズの完成形を見ていたのにもかかわらず、飽くなきモーダリティの追求の果ての「錯視」としてのシャンカールに傾倒「してしまった」ことで、死に至るまでの統合できなかった分裂を背負い込んだ、と言うことができる。アフリカのリズム構造に対しては、宗教を介さずに都市音楽の中で獲得する、つまりジャズとして抽象化/記号化することができたのにかかわらず、インドの旋律構造(ラーガ)に対しては具象として丸抱えで取り込もうとし、そのまま雪崩れるようにしてインドとアフリカ両者の具象の混沌に突っ込んで67年に果てる。・・・・・・

コルトレーン分裂の悲劇、マーラーの分裂、現代人の分裂・・・、今は暑くて深く考えたくないです。

また、カレー屋さんに行って一緒に考えますか!!(笑)

インドカレー屋のBGM
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E5%B1%8B%E3%81%AEBGM-%E3%82%AA%E3%83%A0%E3%83%8B%E3%83%90%E3%82%B9/dp/B0009S2PLK/ref=sr_1_5?s=music&ie=UTF8&qid=1310858769&sr=1-5

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岡本 浩和

>雅之様
こんにちは。
前にもコメントいただいた考察、これは素晴らしいですが、僕の脳みそでは追いつかないですね(涙)。

「インドとアフリカ両者の具象の混沌」というのもわかったようなわからないような・・・。
いずれにせよ聖俗の分裂というのが原因にあるんですかね・・・。
研究の余地ありです。
ぜひカレー屋さんで(笑)。

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