先日も触れた、リチャード・E.ルーベンスタインが著した「中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ」。その結論には次のようにある。
そして―信仰と理性の分裂は一人一人の人間も分裂させているがゆえに―私たちは他者に対してもっと愛情深く有用な存在になり、自分自身にもっと満足するようになれるだろう―もし、私たちが信仰と理性という人間の根本的側面を調和させることができさえすれば。
調和させるのであって、「融合」させるのではない。なぜなら、私たちが復活させたいと夢見ているのは、信仰と理性のあいだの創造的な緊張であり、偽りのアイデンティティの類ではないからだ。
~リチャード・E.ルーベンスタイン著/小沢千重子訳「中世の覚醒―アリストテレス再発見から知の革命へ」(紀伊國屋書店)P444
「調和」と「融合」とはそもそも別の概念。すべてがひとつであるとはいえ、僕たちが生まれながらに分断された上それぞれが「アイデンティティ」を持たされている以上「融合」は不可能であり、それならば「調和」するしかないということ。完全一致ではなく、各々が各々を補完し、各々の良い面を誘発するという関係、それこそが「調和」なのである。
ジュリアン・キャノンボール・アダレイの奏する”Waltz for Debby”を聴いて閃いた。
ビル・エヴァンスの生んだ名旋律がシンコペイトし、踊る。
ここでのエヴァンスは、あくまでキャノンボールを立てる。遠慮がちとは言わないまでも、自身は極力表に出ず、黒子に徹する。”Goodbye”におけるピアノ・ソロのパートにしても、決してエゴイスティックにならず、続くキャノンボールのソロに追随する。
そして、ガーシュウィンの”Who Cares?”でのキャノンボールのアルト・サックスは一層自由だ。それに触発されるようにエヴァンスのピアノが泣き、パーシー・ヒースのベースがうねる。
Cannonball Adderley with Bill Evans:Know what I mean?(1961.1.27, 2.21&3.13録音)
Personnel
Julian “Cannonball” Adderley (alto saxophone)
Bill Evans (piano)
Percy Heath (bass)
Connie Kay (drums)
性質の異なる奏者でもがっぷり四つに組み、互いを尊重することで類稀なる名演奏が生れることが証明される。何よりキャノンボールもエヴァンスも必要以上に主張しないところが魅力。
ジョン・ルイスの”Venice”での、脱力の気怠い響きに2人の天才の才能を垣間見る。特に、後半の弱音によるアルト・ソロに感動。
さらに、クリフォード・ジョーダンの”Toy”でのアルトの旋律にMarvin Gayeの”I Want You”を想う。
ちなみに、このアルバムの白眉は、何と言ってもビル・エヴァンス作のタイトル曲。序奏部を経て、幾分アップ・テンポでアルトによって歌われる旋律の躍動感と、バックを務めるトリオの解放感及び生命力漲る勢いの素晴らしさ。
名演奏というのは、互いが互いを生かしあった時に生まれるもの。ここにあるのはまさに「阿吽の呼吸」。最高である。
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