ただただ「音」から感じる・・・

2000年代になってから、一時期は完全にベジタリアンになったほど食に気をつけるようにしている。いわゆるジャンク・フードの類は食べないし、食事も規則正しく、夜遅くには滅多に口にしない。お蔭で体重や体型はほとんど大学生時代と変わらない。
ところが、そんな僕でもたまにはその手のものが食べたくなる。今日がそういう日だったのかどうかは不明だが、近所のつけ麺屋で中盛りを食した。そもそもつけ麺というものも初めてで、中盛りと言えども決して量も多くはないのだが、いかにもジャンキーな濃い味で、口に入れた瞬間は「美味い」と思えるのだが、後になって胃腸に衝撃が走る(苦笑)。
やっぱり無理はすべからず。自分で調理した粗食が一番だと再確認。

長いこと気になっていた吉田秀和先生の近著「永遠の故郷」をようやく読み始めた。第1巻である「夜」を読んでみて、類稀な音楽的見識とその他の芸術的知識が見事に融合した吉田節が健在で、話題になっているフォーレやリヒャルト・シュトラウス、あるいはヴォルフの歌曲が無性に聴きたくなった。以前も書いたが、若い頃いわゆる歌曲が苦手だった。言葉の意味を直接的にキャッチできないところにそもそもの原因があったのだろうが、言語そのものを音楽的に捉えて(意味などこの際後回しにして)聴くよう試みてから俄然その世界にも少しずつだが明るくなっていったように思う。とはいえ、モノにするにはまだまだ。引き続きシューベルトあたりから研究、勉強してみるつもり。

昔からナタリー・シュトゥッツマンの声が好きで(どういうわけか僕は女性の低い声が好き)、リストやシューマンの作品を愛聴しているが、実に興味深い作品を録音しており、ここのところ繰り返し聴いている。

シューベルト:歌曲集「白鳥の歌」D.957&5つの歌曲
ナタリー・シュトゥッツマン(コントラルト)
インゲル・セデルグレン(ピアノ)

女声による珍しい録音ということで話題になったが、過去の男声による優れた音盤と比較してみても決して見劣りしない力強さがこの中にはある。ただし、力強さと言っても強引なとか激しいという意味ではない。女性らしい母なる大地にしっかりと根付いた余裕が感じ取れるのである(それにしてもシューベルト歌曲は実に勉強不足。聴き込みが全くもって足りないので、楽曲そのものについて薀蓄をたれたり、演奏の詳細についてコメントをする資格なし)。
「白鳥の歌」というのは、厳密には作曲者自身の意志によって出版されたものではない。よって、シューベルト自身が自らの「白鳥の歌」として発表したものではないということだ。そのことを、つまりまだまだ生への希望に満ちていたであろうシューベルトの心の奥底が見える、そんな肯定感を感じさせてくれる素敵な録音だと僕は思う。
ハイネの詩による第8曲「アトラス」の男声に優るとも劣らぬ意味深い音楽。

僕は不幸なアトラスだ!世界を、
苦しみの全世界をになわなければならぬ。
になうべからざるものをにない、僕の心は
身体の中でいまにも張り裂けんばかりだ。

そして、同じくハイネによる第13曲「影法師」の虚ろな叫び!

夜が静かだ、街並みは安らっている、
この家に僕の恋人が住んでいた。
彼女はずっと前に町を去ったが、
家は相変わらず同じところに立っている。

そこにも人が一人いて、虚空を見つめ、
激しい苦痛に組んだ手をよじっている。
僕はその顔を見て、ぞっとする―
月が照らし出したのは僕自身の姿なのだ。

意味など考えず、ただただ「音」から感じること。嗚呼、震えが止まらず・・・。


2 COMMENTS

雅之

おはようございます。

ご紹介の音盤、おっしゃるとおり深々としたシュトゥッツマンの低い声がとても魅力的ですが、私は曲順にやや不満があります。通常通り、不思議な明るさをたたえた絶筆「鳩の便り」で終わるのが、最も好きです。

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
おっしゃるとおりですね。
僕も最初聴いたときは違和感を覚えました。
こういうのって一種の慣れや常識というのも影響すると思うのですが、正しい正しくないということは別にしてやっぱり発表されたとおりの流れって大事だと思います。

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