突然、歌が聴きたくなった。
言葉など理解できなくても良い。思考を排して、ただ感覚で音楽に浸りたい。ならば、なぜ器楽曲でなくあえて歌曲なのか。
歌を聴くと、自ずと歌われている意味を知りたくなるのが人間だ。
しかし、意味を追おうとすると、肝心の音楽が直接心に届かなくなるのも確か。僕たちはそんなに器用ではないのだから。
シュヴァルツコップの歌は、場合によってはあまりに人間臭く、時に癖のあるものだ。
しかし、だからこそまた愛らしく、温かく、そして官能的でもあるのである。
歌は、その音楽だけで十分に人の心を捉えるもの。
どちらかというと、詩の内容そのものよりも、作曲家が詩の何に感応したかを知ることが大切だ。
エリーザベト・シュヴァルツコップ未発表EMIレコーディングス1946-1952
・トマス・アーン:「まだらのヒナギクや」~「恋の骨折り損」(シェイクスピア)(1946.11.7録音)
・トマス・モーリー:「好いた同士の彼氏と彼女」(シェイクスピア)(1946.11.7録音)
カール・フデス(ピアノ)
・モーツァルト:「すみれ」K.476(ゲーテ詩)(1948.5.21録音)
・シューベルト:「糸を紡ぐグレートヒェン」D.118(ゲーテ詩)(1948.5.21録音)
・シューベルト:「ミューズの子」D.764(ゲーテ詩)(1951.12.2録音)
・シューベルト:「子守歌」D.498(ザイドル詩)(1952.9.12録音)
・リヒャルト・シュトラウス:「私の父は言いました」作品36-3(1951.11.25録音)
・リヒャルト・シュトラウス:「悪天候」作品69-5(ハイネ詩)(1951.11.25録音)
・ヴォルフ:「コウノトリの使い」(メーリケ詩)(1948.5.21録音)
・ヴォルフ:「コウノトリの使い」(メーリケ詩)(1951.4.6録音)
・ヴォルフ:「公現祭」(ゲーテ詩)(1951.4.2録音)
・ヴォルフ:「私の恋人はこんなにかわいい」(ハイゼ訳詩)(1951.4.2録音)
・ヴォルフ:「私を紐で縛ろうとするのか」(ハイゼ訳詩)(1951.4.2録音)
・ヴォルフ:「さあ少し静かにしておくれ」(ハイゼ訳詩)(1951.4.2録音)
・ヴォルフ:「お前の足を痛めたのは誰」(ガイベル訳詩)(1951.4.11録音)
・ヴォルフ:「花で私をおおって」(ガイベル訳詩)(1951.4.7録音)
・ヴォルフ:「悪態のかぎりをつく」(ガイベル訳詩)(1951.4.7録音)
・ヴォルフ:「妖精の歌」(メーリケ詩)(1951.4.7録音)
・ヴォルフ:「葦の根の妖精」(メーリケ詩)(1951.4.7録音)
・ヴォルフ:「春に」(メーリケ詩)(1951.4.6録音)
・ヴォルフ:「とりすました女」(ゲーテ詩)(1951.4.11録音)
・ヴォルフ:「心とけた女」(ゲーテ詩)(1951.4.11録音)
・ヴォルフ:「ねずみとりの呪文」(メーリケ詩)(1951.4.7録音)
・ヴォルフ:「夏の子守歌」(ライニック詩)(1951.4.2録音)
ジェラルド・ムーア(ピアノ)
全盛期のシュヴァルツコップの歌。若き日(31歳~37歳)の録音だが、その声は既に老練。今となっては古臭さが拭えない気もするが(「すみれ」はモーツァルトを聴くというよりシュヴァルツコップを聴くという感じ)、1952年のシューベルト「子守歌」が心に迫る。それにしてもヴォルフの歌曲にはいずれもシュヴァルツコップらしい魔性が潜むのだからまさに十八番。
不安に彩られるムーアのピアノ。ヴォルフの内なる狂気が音によって見事に再現される様。
不安を打ち消すには、行動することだ。行動するには、信じることだ。
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