
グスタフ・マーラーは生涯「死」というものを怖れ、「死」と向き合い、生きた人だ。
「生は暗く、死もまた暗い」という「大地の歌」の有名なフレーズは、まさにマーラーその人の思想のあり方を表す慟哭の名旋律だと思う。

マーラーはあくまで彼岸には足を踏み入れていない。
此岸からの彼岸を想像し、とり憑かれ、交響曲という形式でもってそのことを表現したのである。だからこそ、彼の音楽には人間臭い表現がぴったりなのだ。

バーンスタインは、20世紀が死の世紀であり、また信仰を喪失した世紀だとし、そのことを予見し、嘆き、マーラーは第九を作曲したと考えた。確かにその通りなのだと思う。
そういうバーンスタインは、死というものを怖れることなく、想像以上に破天荒な生き方をした人だった。天才であったがゆえの苦悩もあったことだろう(彼はむしろ死と同化するために自虐的な生活を送ったのだともいえる)。
3種あるバーンスタインのマーラー全集は、いずれも特別だ。
個人的には晩年DGに録音したものを第一に推すが、もちろんブームの嚆矢となる60年代の最初の全集も素晴らしい。







40年近く前、当時出たばかりのレーザーディスクを手に入れ、心躍りながら、同時に、正座をするような、厳粛な思いで、彼の2度目の、映像を伴うマーラー全集の幾つかを観た。動くバーンスタインを観て、僕は感激した。


中で、エディット・マティスが独唱に抜擢された第4番ト長調が可憐で美しい。
いかにも天国的な音調の充溢する交響曲だが、第2楽章に不吉な「死の舞踏」を持ち、(マーラーの音楽の中でも屈指の)安寧に支配される第3楽章アダージョを経て、「天井の生活」を歌う終楽章に至る様子は、やはり(此岸から)「死」と真っ向から向き合った、そしてまた「死」と同化した傑作だ。
そういえば、その昔「大いなる喜びへの讃歌」などという邦題が付されていたが、なくもがな。言葉に惑わされるのでなく、マーラーの音楽そのものを(余計な先入観を忘れ)無心に堪能するのが一番だ。
・マーラー:交響曲第4番ト長調(1900)
エディット・マティス(ソプラノ)
レナード・バーンスタイン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1972Live)
先ごろ(2月9日!)亡くなったマティスの34歳のときの名唱!
(第2楽章でヴァイオリン・ソロを弾くのは当時32歳のゲルハルト・ヘッツェル!)
(バーンスタインの3種の4番の中で最初のグリスト盤かこのマティス盤か迷うところ)
(個人的見解では、古き良き時代を思わせるオーケストラの柔らかい響きという点でマティス盤に一日の長あり)
バーンスタインの、マーラーへの思いのこもった、粘りのある演奏については何も言うことなし。幾度聴いても新たな発見をもたらす名指揮。
〇 一念、一念とかさねて一生
端的只今の一念より外はこれなく候。一念一念と重ねて一生なり。ここに覚え付き候へば、外に忙しき事もなく、求むることもなし。この一念を守つて暮すまでなり。皆人、ここを取り失ひ、別にある様にばかり存じて探促いたし、ここを見付け候人なきものなり。さてこの一念を守り詰めて抜けぬ様になることは、功を積まねばなるまじく候。されども、一度たどりつき候へば、常住に無くても、もはや別の物にてはなし。この一念に極り候事を、よくよく合点候へば、事すくなくなる事なり。この一念に忠節備はり候なりと。
~三島由紀夫「葉隠入門」(新潮文庫)P160-161
真我から湧き上がる一念こそすべて。
二念、三念と継がぬことだ。
(三島も同じく此岸から彼岸を見ていた)
(自死の無念)