「天才」というのは発想やインスピレーションが湯水のように湧き起こる並はずれた人々のことだと思っていたが、バッハの言葉にあるようにそういうものはわずか数パーセントで、後は本人の絶え間ない努力によって為されているものなんだと昨日講座をやりながらあらためて思った。
バッハは言う。
私のような者でさえ勤勉と訓練とによってここまでこぎつけることができたのだから、そこそこの素質と才能をもっていさえしたら誰でも私と同じくらいになれるはずだ。
確かに当時流行していたヴィヴァルディの作品を研究してはそれを基に編曲したり、あるいは「方法」をそっくりいただいて作品を創ったり、現代だったら間違いなく盗作などと訴えられるようなギリギリの行為も当然だったよう。もちろんそんなことは朝飯前の時代だから本人も悪気はないし、むしろそうやって他の作曲家の作品を広めてやろうというくらいのつもりもあっただろうし。それに旋律を盗られる方も結果的に多くの方々の耳に届くわけだからそれはそれで喜んだことだろう。
そういえばベートーヴェンもモーツァルトの歌劇「バスティアンとバスティエンヌ」序曲から主題をいただいて「エロイカ」交響曲を創っているし、モーツァルトもクレメンティのソナタから「魔笛」の主題を拝借しているのだからまったく大らかな時代だったわけだ。いや、今が世知辛すぎるのかも。何かというと権利を主張し、何でも法律、ルール化し、最終的には自らの首を絞めるというような・・・。
「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」というジャイアン的発想というのは意外により「人らしい」ものなのかも(笑)。
ところで、昨日の講座では冒頭に「ゴルトベルク変奏曲」を抜粋で鑑賞した。
グレン・グールドの演奏はいつ観てもやっぱり衝撃的だ。バッハを現代に蘇らせたという功績は大きい。ということで、今夜も「ゴルトベルク」を聴きながら仕事でもするかと聴き始めたが止めた。代わりに、バッハがこの変奏曲を創作するのにおそらく下敷きにしただろうブクステフーデの名曲。
素晴らしい作品。ことによると「ゴルトベルク」以上かも。
バッハが第30変奏の「クオドリベット」で用いたドイツの民謡が形を変えいくつもの変奏に姿を見せるのだから堪らない。バッハはブクステフーデのこの作品を聴いて感動したに違いない。
何にせよバッハが「ゴルトベルク変奏曲」を作曲し、それを20世紀になってグールドがデビュー盤の作品に選び、それによって一般的に知られるようになったわけだから、どんなに他人の作品、旋律を拝借しようとバッハ様様である。お蔭でその基になったブクステフーデの作品も永遠に忘れ去られることのない音楽として歴史に刻みこまれるのだから。
そこそこの素質と才能。そんなものは誰にでもあると僕は思う。ならば、いかに勤勉さと訓練とを自分のものにするかだ。
[…] おそらくバッハが「ゴルトベルク変奏曲」の元ネタとして使ったであろうディートリヒ・ブクステフーデ(1637-1707)の「カプリッチョーサ変奏曲」。 この人の音楽はさすがにバッハが参照するだけあって、どの瞬間も力強く、しかも繊細な美しさをあわせもつ。ヘンデルを軸にまたもや想像を膨らませてみる。 […]