
ベートーヴェンはモーツァルトのハ短調協奏曲K.491に殊更感激し、それを模範に同じくハ短調の協奏曲を生み出した。(ちなみに、同時期には交響曲第2番ニ長調が作曲されている)
確かに2つの作品は極めて相似形だ。

ヴィーンに出てきて真っ先に取り組んだのは自己流からの再出発という課題であった。
(中略)
ベートーヴェンは師から出された課題をこなすだけではなく、成果としてすぐに形になることはなかったが、新作にも自主的に挑んだ。作品1がその代表格だが、ピアノ・コンチェルトも、ボン作品の手直し(第2番[Op.19])と新作への果敢な挑戦(第1番[Op.15]および第3番[Op.37])が並存しており、重要なアイテムであった。これらも、3曲のピアノ・トリオと同様に、3曲セットで進行し、ただしその納得いく完成までには数倍の時間がかかって、紆余曲折を繰り返す。
~大崎滋生著「ベートーヴェン像再構築2」(春秋社)P396

先達からの影響を超え、独自の作風を獲得するプロセスは、3つの初期協奏曲を比較してみればよくわかる。第3番ハ短調は、決してモーツァルトの真似ではない。ハ短調という自身の宿命たる調性を選択し、暗い風趣の内に、見事な情熱と繊細な情緒が組み込まれ、間違いなくベートーヴェンの天才を示すものだ。
いずれもパリはシャンゼリゼ劇場での録音。
(今や採り上げられることは少ない録音だろうが)確かなテクニックと、音楽の意味を純粋に表現し切る力量こそギレリスの業。録音の関係もあろう、この、どちらかとくすんだ、柔かい印象の響きが僕は好きだ。
第1楽章アレグロ・コン・ブリオに感じられる「悲劇」は、自身の難聴の兆候に対する未来への悲観なのかどうなのか。あるいは、ベートーヴェンの意識に内在する「喜劇」のアンチテーゼとしての「悲劇」という洒落を表わそうとしたのかどうなのか。同時期の交響曲第2番と対極にある逸品。ギレリスのピアノはベートーヴェンの真意を見事に捉えて表現するが、あくまで次の楽章に向けての前哨戦だ。
第2楽章ラルゴこそ白眉。この優しくも可憐な音楽は、ベートーヴェンの女性的な部分がはっきりと示された傑作であり、ここではギレリスも、もちろんクリュイタンスも、音楽そのものに没入し、ベートーヴェンの明るい未来を想像する。
そして、終楽章ロンド(アレグロ—プレスト)の解放感は、ベートーヴェンの本懐たる「闘争から勝利へ」を示す、最初の回答だ。ギレリスは実に丁寧に音楽を運ぶ。