厳しい自己批判と究極まで徹底的に突き詰める手兵の練磨。
絶対支配者として君臨し、しかも時代の趨勢、あるいは見事に統制がとれた社会であったがゆえの完璧さ。何より初演の時からまったくぶれない解釈に感服せざるを得ない。どの作品を聴いても、違うのは録音の良し悪しくらい。1940年代のこの人も、50年代、60年代のこの人も、そして晩年のこの人も、生み出される音楽が神懸かり的であるという意味において何も変わらない。
1961年2月25日に演奏されたショスタコーヴィチの交響曲第8番を聴いた。
前年のロンドンでの実況録音との違いは、強いて言うなら奏された場所の空気感だ。レニングラード・フィルハーモニー大ホールの厳粛な雰囲気と酷寒の大地を揺るがす音響の凄まじさ、そしてあまりの静謐な美しさ。対する1960年9月23日のロイヤル・フェスティヴァル・ホールでのそれはその場にいる聴衆に呼応するかのようにどこか明るい。もちろん指揮者本人は緊張の極致にあったはずだが、それでもどこか余裕のあるムードを僕は感じる。
第1楽章後半の、芯のあるコーラングレの寂しき旋律に人間存在の孤独を思う。交響曲第8番についてのムラヴィンスキーの言。
なぜなのか理解できる!最終的な分析では、それは私たちの時代の人間についての歌の交響楽であり、現代の交響楽団という最も完全で柔軟な媒体によって表現されたものである。
~グレゴール・タシー著/天羽健三訳「ムラヴィンスキー高貴なる指揮者」P240
レニングラード・フィルをしてムラヴィンスキーは完全で柔軟な媒体であると断言する。そして、この完全なオーケストラによって創出された第2楽章アレグレットは、衝撃的な舞踏であり、冒頭から強烈な音の塊となって聴く者を圧倒する。
・ショスタコーヴィチ:交響曲第8番ハ短調作品65
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1961.2.25Live)
そして、あの超絶テンポの第3楽章アレグロ・ノン・トロッポが炸裂、金管の破壊的叫びに金縛りに遭い、打楽器の野太い鼓動に心躍る。中間部のトランペット・ソロは勇猛果敢。ここは間違いなくムラヴィンスキーの真骨頂。
しかし、驚くべきは第4楽章ラルゴのあまりに幽玄な響き。ショスタコーヴィチが泣き、ムラヴィンスキーも泣く。その上、柔軟な媒体であるレン・フィルまでもがむせび泣くのである。さらに、終楽章アレグレットの冒頭クラリネット独奏をはじめ、木管群の美しい響きに感動。ティンパニの相変わらずの強烈な打撃と高鳴る弦楽器の錯綜に感無量。特に、独奏ヴァイオリンの諧謔的な旋律に二枚舌ショスタコーヴィチの本音を思う。
ちなみに、第3楽章と第4楽章のつなぎ目で余韻が切れているのは、1962年に短期間メロディアから発売されたLPの面の切れ目に当たっていたからという理由によるらしい。そういうところもいかにも旧ソヴィエト的で逆に生々しい。
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これは、昨年、ゲルギエフを聴きに行った時、ゲルギエフのものと一緒に買いました。こちらの方が一つの規範となる演奏だろうと思います。しかし、ゲルギエフの演奏も大変素晴らしい説得力ある演奏でしたね。