バルビローリ卿のラスト・コンサート

特に1900年代の、都会を離れ隠遁生活を送るようになったシベリウスの音楽には、底知れぬ「愛」があるように僕には思える。そう、極めて個人的なラブレターのような。ゆえに、大衆にはとてもとっつきにくい。晦渋な印象を受けるのは当然のことで、作曲家の頭にあったのはプライベートな、アイノ夫人への「親密な想い」あるいは「愛の想念」だけだったのでは?そんな個人的な心の声が第三者に容易に理解されようがない。昨晩のピエタリ・インキネンの指揮するシベリウスを聴きながら、僕はそんなことを思っていた。

人は精神的にも肉体的にも弱った時にこそ他人を必要とする。何でも打ち明けることができ、心と心でつながる誰かの存在をなくてはならないものとする。もちろん自己開示が苦手な人にとってそのことは困難な第一歩なのだけれど、そういう人が身近に在るという事実が支えになるということは間違いない。シベリウスの場合はアイノ夫人。そして多くの芸術家の場合、心情を音楽に託す。言葉で表現できてもできなくても、音楽を媒介にして「ひとつになる」ことが可能なのだ。昨日も書いたが、そのことはシベリウスの第7交響曲を聴けばよくわかる(できれば第6交響曲とセットで聴いてみるとなお良い)。

サー・エドワード・エルガーの場合はどうだったのか?
やっぱりアリス夫人の存在が極大(1920年に夫人を亡くした時、創作意欲が見事に減退したことはそのことを如実に証明する)。

シベリウスが第3交響曲を生み出した1907年頃、英国ではエルガーが最初の交響曲を書き進めていた。エルガーのこの音楽は、ハンス・リヒター指揮ハレ管弦楽団の初演の際大成功を収めたと言われるが、決して単純で明快な音楽とは言い難い(初演以来1年間で世界中で100回以上演奏されたというが本当か?長尺で、少々くどいように僕には感じられる)。こちらにもフィンランドの巨匠同様アリス夫人への極めて個人的な「想い」や「愛情」が託されているのだろうか。

エルガー:
・弦楽四重奏と弦楽オーケストラのための「序奏とアレグロ」作品47
・交響曲第1番変イ長調作品55
サー・ジョン・バルビローリ指揮ハレ管弦楽団(1970.7.24Live)

何とバルビローリ卿、死の5日前の鬼気迫るライブ演奏(もちろんご本人はこの時点で5日後に自分が天に召されるとは思ってもみなかっただろうけれど)。キングス・リン・フェスティバルでの聖ニコラス聖堂におけるコンサートの記録。
決してとっつきやすいとは言えない音楽もある時ある瞬間突然わかる。バルビローリ卿のラスト・コンサートでの空前の大演奏は、僕にエルガーの第1交響曲の真髄を教えてくれたよう。
第1楽章冒頭の湧き上がるような楽想と決然と歩を進める序奏から「愛」がこもる。そのことを指揮者が知っていて再現したのかどうかそれは知らない。でも、僕にはとても数日後に命を落としてしまう人が創り出したとは思えない実存感が見えるのだ。楽想ががらりと変わる主部に入ってもそのことは変わりない。
ダース・ベイダーのテーマのような第2楽章は雄渾な行進曲。ここでもバルビローリ卿の棒は迫真だ。しかしながら、白眉は第3楽章アダージョ。ハンス・リヒターをして「ベートーヴェンの緩徐楽章に匹敵する」といわしめたこの音楽はセンチメンタルで、どこかしらノスタルジックで・・・。こんなにも優しい気持ちになれる音楽はなかなかなかろう。

思わず繰り返し聴いた。素晴らし過ぎる。
好天に恵まれたゴールデン・ウィーク初日なのに、室内で何度も・・・(笑)。
しかしその分、生き返ったようだ。
ふみ君に感謝・・・。


3 COMMENTS

ふみ

おー、早速聴いて頂けて光栄です!

いくらしつこかろうと、僕はエル1は十本の指には入る程大好きな交響曲ですけどねぇ。
バルビローリのこの盤はやはり何と言っても三楽章が白眉だと思います。
でも、やっぱりデイヴィス/SKDの方が好きだなぁ、、、

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