ムター&カラヤンのベートーヴェン(MG1268)

リサ・バティアシュヴィリのヴァイオリンはとても衝撃的。いまだ実演に触れていない女流ヴァイオリニストゆえ「絶対」とは言いきれないもどかしさはあるものの、少なくとも「時の谺」、あるいはYoutubeでブラームスの協奏曲の一部を聴いただけでほぼ間違いないという確信に至る。彼女の音楽にもっと触れてみたい。今は率直にそう思う。

同じような思いを持ったことは過去に幾度もある。そのうちのひとつ、大いなる原体験。もう33年前になるけれど、アンネ=ゾフィー・ムターのヴァイオリンを初めて聴いた時もそうだった。そう、忘れもしないあの日。いつものようにNHK-FMを流し聴きしていて、偶然流れたのがムターの独奏によるブラームス(おそらくカラヤン&ベルリン・フィルをバックにしての実況放送。その時点ではまだ彼女はブラームスのコンチェルトは録音していなかった)。今の彼女の音とは少々違って、柔らかなヴィブラートと濃厚かつ豊潤な音が特長で、それまでシゲティの晩年の録音でこの音楽に親しんでいた僕にとってブラームスの協奏曲の何たるやを、そしてヴァイオリン音楽とは何たるやを知らしめられた(大袈裟!)あの日のこと・・・。

それにしてもバティアシュヴィリのショスタコーヴィチが頭から離れない。西洋音楽がそれまで培い、発展させてきた「枠」(第1楽章が「夜想曲」、第2楽章が「スケルツォ」、第3楽章が「パッサカリア」、そして終楽章が「ブルレスケ」)を利用し、あくまでショスタコーヴィチにしか書き得ない音楽を創出、しかもそれをそれまでにない作品として世に問うあたりが「常識人」(例えば、体制による批判を逃れるため何年も発表を控えたという点)でありながら一方で「常識破り」(例えば、形式を用いながら既存の構成に縛られないという点)でもあるという二面性を秘めており、それだけで面白くて堪らない。もちろん音楽そのものも聴けば聴くほどに発見のある大傑作。

こういう新発見があるから音楽探求は止められない。
原点回帰。初めてムターの音楽を聴いた直後に買いに走ったアナログ盤(当時の値段にして国内盤¥2,600也、グラモフォン盤は他レーベルより高価だった)。

ベートーヴェン:ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61
アンネ=ゾフィー・ムター(ヴァイオリン)
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1979.9.24録音)

多分刷り込みだと思う。
僕の中で単に常識化しているだけなんだと思う。
ひょっとするとそれが「枠」になってしまっているのかもしれぬ。
でも、カラヤンの秘蔵っ子といわれた当時のムターの音楽が特別僕は好きだ。

人は誰でも自由になりたいと願う。でも、本当に何の縛りもない状況になったら人は自由に生きていけるのだろうか?
実際には一定のストレスがあるから頑張れるし、成長があるというもの。その意味では、芸術家の場合も「誰か」の庇護の下に「自由に」音楽を奏でていた方がより真実に近かったりするものなのか・・・。少なくともそういう音楽に愛着を感じる。
そのこともやっぱり「刷り込み」?
ムターの弾くベートーヴェンを聴きながら懐かしさとともに出てきた思考・・・。

16歳の頃のムターのヴァイオリンの響きはティーンエイジャーらしからぬ「凄み」に溢れる。何より「恐れを知らず無心に弾きこなす」姿勢が素敵。ここにはすでに「飛翔」の片鱗が垣間見える(あくまで片鱗だけど)。

 


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