アファナシエフのベートーヴェン「ディアベリ変奏曲」(1998.11録音)を聴いて思ふ

beethoven_diabelli_afanassiev3111815年頃、ベートーヴェンはインド哲学に凝っていたそうである。
ベートーヴェンの「手記」には次のようにある。

神からは一切が清らかに流出する。私が幾度か情念のため悪へ混迷したとき、悔悟と清祓を繰り返し行なうことによって私は、最初の、崇高な、清澄な源泉へ還った。―そして、「芸術」へ還った。そうなると、どんな利己欲も心を動かしはしなかった。常にそうあってくれるといい。
ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P171

おそらく「ウパニシャッド」か「バガヴァッド・ギーター」あたりがその出典らしいが、魂の遍歴を経て、そのころようやく彼は一種悟りを開いたのだと思われる。楽聖の、聴覚を失うという体験も内なる声に集中するための天賦であったのかもしれない。
輪廻を繰り返し、魂は成長する。

まるで幾つもの人生を描いた転生の物語のよう。変奏曲とはいえ、ほとんど主題の原型は留めず、すなわち姿かたちは違えど、どの人生においても出逢うべくして出逢うソウルメイトの如くぶつ切りになった主題の断片たちがそこかしこに木魂する。
バッハの「ゴルトベルク変奏曲」に比肩する最高の作品であると世間では言われる。
しかしながら、バッハの小宇宙があくまで形而下的であるのに対し、ベートーヴェンのこれは人間の生み出す、想像可能な一切合財を超え、まさに形而上の物語であることを考えると、この作品によってベートーヴェンは尊敬するヘンデルやバッハやハイドンやモーツァルトをついに超えることができたのではなかったか・・・。

哲学者ヴァレリー・アファナシエフの「ディアベリ変奏曲」を聴いて、空想した。

・ベートーヴェン:ディアベリの主題による33の変奏曲ハ長調作品120
ヴァレリー・アファナシエフ(ピアノ)(1998.11.24-27録音)

どの変奏も有機的なつながりと音楽の意味深さに長けるが、第21変奏以降の解放と昇華のドラマが素晴らしい。特に第29変奏からの時に踊るあまりに静謐な調べは作品111アリエッタのそれと同期する。
ここでのアファナシエフの演奏は神韻縹渺たるもので、まさに楽聖の真意と一体化するのである。その上、第32変奏でのあまりに軽快な響きに、すべてをかなぐり捨て自由になったベートーヴェンを思う。第33変奏にはもはや何もない。

聖バガヴァッドのアルジュナへの言葉。

実に、知識は常修より優れ、瞑想(禅定)は知識より優れ、行為の結果の捨離は瞑想より優れている。捨離により直ちに寂静がある。
すべてのものに敵意を抱かず、友愛あり、哀れみ深く、「私のもの」という思いなく、我執なく、苦楽を平等に見て、忍耐あり、
常に満足し、自己を制御し、決意も堅く、私に意と知性を捧げ、私を信頼するヨーギン、彼は私にとって愛しい。
上村勝彦訳「バガヴァッド・ギーター」(岩波文庫)P105-106

「捨離により直ちに寂静がある」とは何たる覚醒!!

 

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2 COMMENTS

岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] 「ディアベリ変奏曲」が、ベートーヴェンのピアノ音楽の到達点であり、聖なる世界についに足を踏み入れた晩年の哲学的境地であるとするなら、そのプロトタイプが「創作主題による32の変奏曲ハ短調WoO80」である。「レオノーレ」が生れ、いよいよ「傑作の森」に突入しようとしていたあの頃に創造された音楽の、わずか10分強という時間の中で繰り広げられる人生の浮き沈みと機微。 やはり30歳を超えたあたりでベートーヴェンは間違いなく悟りを得たのだろうと思う。 […]

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