アバド指揮ウィーン国立歌劇場のヴェルディ「シモン・ボッカネグラ」(1984.3.22Live)を聴いて思ふ

ヴェルディにとって本当の英雄とは、私欲のために社会を泳ぐのではなく、自分の正しいと思うことは、たとえ宗教的制約があっても強引に成し遂げる男のことだった。つまりフィエスコの娘マリーアと親の許可も宗教的認知も受けずに結ばれて私生児を生ませてしまうが、その後もなんとかして彼女と正式に結婚しようと努力するシモンのように、社会の因習と闘う男にこそ、ヴェルディは自分の姿を投影できたのだ。
永竹由幸著「ヴェルディのオペラ―全作品の魅力を探る」(音楽之友社)P307

自身の思想を形にしていくにはある意味純粋で、一途でなければならない。しかし、そういう性質が災いし、結果的にシモンは腹心であるパオロに裏切られる。彼にとって最も重要なのは大義であったゆえ、毒を盛られての壮絶な最期も内心納得済みのことであったのかもしれない。

歌劇「シモン・ボッカネグラ」は、クラウディオ・アバドによって世に広められたといっても過言でないヴェルディ中期の傑作(一般的に知られる改訂版は後期のもの)だが、例の非の打ちどころのないDGスタジオ録音盤に比して、1984年、ウィーン国立歌劇場でのライヴ盤は、実演ならではの一回性が支配し、多少の瑕をものともせず音楽は前のめりで進み、ある瞬間は抒情に溢れ、ある瞬間は激烈さに満ち、その日その場に居合わせた人に羨望を感じるほどの美しさ。

何より老練の作曲家の音楽の素晴らしさ。プロローグ冒頭の管弦楽による前奏の静かな優しさに魅せられ、第1幕最初のアメーリアのロマンツァ「暁に星と海はほほえみ」の美しさに感応する(終演後の聴衆の拍手喝采も壮大)。

・ヴェルディ:歌劇「シモン・ボッカネグラ」
レナート・ブルゾン(シモン・ボッカネグラ、バリトン)
カティア・リッチャレッリ(マリーア・ボッカネグラ、ソプラノ)
ルッジェーロ・ライモンディ(ヤーコポ・フィエスコ、バス)
ヴァリアーノ・ルケッティ(ガブリエーレ・アドルノ、テノール)
フェリーチェ・スキアーヴィ(パオロ・アルビアーニ、バリトン)
コンスタンティン・スフィリス(ピエトロ、バリトン)
エーヴァルト・アイヒベルガー(弓隊の隊長、テノール)
アンナ・ゴンダ(アメーリアの侍女、メゾソプラノ)
クラウディオ・アバド指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団&合唱団(1984.3.22Live)

例えば、第3幕フィナーレの、義理の親子フィエスコとシモンの二重唱「わしは、神のみ声に涙をながす」の荘厳な響き!!以降の、シモンの死に至るまでのクライマックスを耳にするにつけ、ヴェルディがそれこそシモンに自身を重ね合せ、(彼の考える)真の「英雄」というものを描き切ろうとしていたことが手に取るようにわかる。暗く重いその音楽は、どこまでも透明で、死した英雄の魂は見事に浄化される。

フィエスコ:
泣いている なぜならわしに語りかけてくるからだ
お前を通じて天の声が
わしは激しい叱責すら感じているのだ
お前の慈悲深さからでさえも

シモン・ボッカネグラ:
さあ この胸にあなたを抱擁させてください
おお マリーアの父上よ
私の魂を癒す薬に
あなたの許しはなるのでしょう

フィエスコ:
ああ!死が近づいている・・・裏切り者が
お前に毒を盛ったのだ
~オペラ対訳プロジェクト

両者は最後に和解する。ブルゾンの十八番シモンの深み、対するライモンディ扮するフィエスコの慈しみ。いずれの感情表現もピカイチ。そしてまた、音楽を完璧に手中に収めたアバドの棒は極めて情熱的。

 

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2 COMMENTS

雅之

シモン・ボッカネグラという実在した平民出身の統領の出現と、その前後のジェノヴァの歴史に思いを馳せる時、君主政 ⇒ 暴君政 ⇒ 貴族政 ⇒ 寡頭政 ⇒ 民主政 ⇒ 衆愚政 ⇒ 君主政といった、ローマ共和政時代の歴史家ポリビオスが唱えた「循環史観」を連想せずにはいられません。

歌劇「シモン・ボッカネグラ」は、そのことを考える上で、私にとって、よい教材のひとつともなっています。

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