崇高な天地創造の物語が、アフリカに住む黒人の視点からのものである点が興味深い。喧騒とジョークと諧謔と。世界は人間が創造したのだと言わんばかりのポピュラリティ。さすがに天才は目の付けどころが違う。いち早くジャズのイディオムを取り込んだバレエ音楽。
ダリウス・ミヨーが1923年に作曲したバレエ音楽「世界の創造」。
イーゴリ・ストラヴィンスキーと語法が似ているように思うのだが、(本人の性質の問題なのか、それとも政治的手法の問題なのか)ディアギレフの御目には適わなかったらしい。わずか16分ほどの作品だが、人類誕生を描く第3部以降がことに素晴らしい。何よりシャルル・ミュンシュ指揮するボストン交響楽団の音の輝きと色彩感!何て情熱的なのだろう。
そして、ミヨーの、故郷エクス・アン・プロヴァンスへの愛着秘められた「プロヴァンス組曲」の華麗なる憂い。ここにあるのは豊饒なる未来への楽観だけではない。音楽が陽気になればなるほどそこには不思議な哀感が募る。そう、まるでモーツァルトの音楽のように。
6人組の音楽に共通するのは、妖艶な危うさだ。陽気な退廃だ。
表面上を覆う明朗快活さは、むしろとってつけたような仮面に過ぎない。
ゲームだ、すべてはゲームだ。本質を観よとミュンシュが唸る。
彼女は唇を噛みしめて泣いていた。「わたしが何をしたからって、そんなに意地悪するの? お願いよ、わたしたちの幸福の第一日を台なしにしないでちょうだい」
「今日があんたの幸福の第一日だなんて、それじゃ、まるで僕なんか愛してないんだ」
こうした毒舌は、むしろそれを言う者を傷つけるものだ。僕は自分が何を言ってるのか、全然考えていなかった。だが言わずにはいられなかった。自分の愛情が募りに募ってきていることは、マルトに説明できなかった。僕の愛情はたしかに成年に達したのだ。そしてこの残忍な意地悪は、情熱に変わりつつある愛情の声変わりだったのだ。僕は苦しかった。そしてこうした悪口はどうぞ忘れてくれるようにマルトに哀願した。
~ラディゲ/新庄嘉章訳「肉体の悪魔」(新潮文庫)P84-85
人間とは勝手なものだ。すべては幻なり。
極めつけは、フランシス・プーランクの協奏曲!
オルガンにティンパニを合わせるとは!それに、管楽器を使わない、モノクロの、それでいてグラデーションたっぷりの響きが肝。
荘厳なオルガンの響きに、打ちつけられるティンパニの怒号が聴きもの。聖なる音、勢いある旋律がまた心に迫る。ひとつ、バランス。ふたつ、洗練。みっつ、メロディ・メイカー。とはいえ、内に秘めた矛盾。この人はモーツァルト以来の(?)天才だとあらためて思う。
人間にあっては、すべてが矛盾だと、人はよく知っている。ある一人に、彼が思うまま創作に力をそそぎうるようにと、食う心配をなくしてやると、彼は眠ってしまう。勝利の征服者はやがて軟弱化する。気前のよい男に金を持たせると守銭奴になってしまう。人間を幸福にしてやると称する政治上の主義も、ぼくらにとって、はたしてなんの価値があるだろうか、もしあらかじめぼくらが、その主義がどんな種類の人間を幸福にしようとするのかを知らなかったら。だれが生まれるのか? ぼくらは、食糧さえあれば満足する家畜ではない、またぼくらにとっては一人の貧しいパスカルの出現が、らちもない富豪の出現などよりずっと価値がある。
~サン=テグジュペリ/堀口大學訳「人間の土地」(新潮文庫)P202
今こそフランス6人組の音楽を。