グールドのバッハ「ゴルトベルク変奏曲」(1955.10録音)(疑似ステレオ盤)を聴いて思ふ

現代において、音楽というものは売れなければ意味をなさないという考え方がある。
例えば、グレン・グールドの「ゴルトベルク変奏曲」は発売当初から世界的にセンセーショナルを巻き起こしたという。たぶん、発売されたレコードは相当に売れたのだろう。
それから十数年、二匹目のどじょうを狙ったのかどうなのか、それはわからないが、1968年になっていわゆる「疑似ステレオ盤」がリリースされた。
残念ながら今となってはこの音盤の存在理由が僕にはわからない。
確かに空間的拡がりを獲得しているけれど、音楽を堪能するという点で、オリジナルのモノラル録音があえば十分だと思われるゆえ。

グールドのバッハに出遇っても奇異な演奏法などとはまったく思わず、むしろよくも大胆に昔の習慣に迫れるものだなあ、と感心した。ただ、言うまでもないが、彼は昔の理論書に拠ったから讃えられるのではない。そうではなくて、古書や古楽器に拠ることで、むしろ、今日のきわめて限定されたロマン主義的演奏の伝承から解き放たれ、開かれた境地に立って自由に、今日の感覚で音楽するのでなければ意味がない。グールドはそれを成しとげている。
~「レコード芸術」1982年12月号P166

グレン・グールドの死に寄せた柴田南雄さんの追悼文を読むにつけ、グールドの特異性は「開かれた境地」であったという一言に集約されるのだと僕は思う。それゆえに1955年の「ゴルトベルク変奏曲」は、録音から60年以上を経ても新しく、決して古びることがない。

なるほど、この演奏をひとりでも多くの人々に届けたいと願う音楽関係者の思いは、いつどんな時も絶えることがなかったと解釈することも可能だということ。

―《ゴルトベルク変奏曲》のまわりをぐるぐるまわってみたのは、逆に、作品のまわりにあるものを重ねてみたら、聴く行為がどう変わるか、ということだ。音楽は音楽だけあればいい、とは思う。でも、聴き手の側はまったく白紙の状態で聴いているわけではない。聴き手には聴き手の生きてきた歴史が、文脈がある。本人は意識していないかもしれないが、それが「聴く」ことに―ひとによって多寡はあるだろうが―否応なしに反映してしまう。
―聴き手の歴史や文脈に対して、作品のほうだって、歴史や文脈があること、を見ておかないと、不公平か、と。
―近松門左衛門と同時代、およそ遠くの世界で、きっと日本のことなど意識したことなどない人物がしこしこと楽譜を書いている。それが、二十一世紀の日本で聴かれ、何かしか感じられたりする。何かが感じられるための、共通した地平、地盤がある。断絶したそれらがまた、ある。そうしたなかで、何が、感じられ、考えられるか。
―で、《ゴルトベルク変奏曲》が、わかった?
―音楽そのものへ、Da Capo…かな。
小沼純一著「バッハ『ゴルトベルク変奏曲』世界・音楽・メディア」(みすず書房)P168-169

小沼さんが言うように、聴き手の歴史や文脈を考えるなら確かに「終わり」はない。
「音楽そのものへ、Da Capo」という表現が冴える。

・J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988(2015疑似ステレオ盤)
グレン・グールド(ピアノ)(1955.10.14-16録音)

フォーマットが何であれ、やっぱり奇蹟の1枚だと思う。
ちなみに、2007年に生誕75年/没後25年メモリアルでリリースされたZENPHによる再創造と称されるステレオによる新録音を久しぶりに取り出してみたが、どこか人工的な違和感が(今では)感じられないでもない。(当り前なのだが)グールドの常套であったうなり声や鼻歌、あるいは椅子のギシギシ鳴る音が収録されていないというだけで「違う」と感じるのだから人間の知覚というのは不思議なものだ(聴く行為において、音楽以外の自然音がいかに重要かということだ)。

・J.S.バッハ:ゴルトベルク変奏曲BWV988
グレン・グールド(ピアノ)
ゼンフ・スタジオ・リ・パフォーマンス ステレオ/サラウンド・ヴァージョン&バイノーラル・ステレオ・ヴァージョン(アルティメット・ヘッドフォン・エクスペリエンス)(2006.9.25-26録音)

ところで、かつて所持していたアナログ盤の音を今や確認できないことが何とも悔しい。
1955年の「ゴルトベルク変奏曲」は、おそらくオリジナルのモノラル録音で、しかもできるならアナログ盤で聴くのが最も正しい聴き方なのだろうと想像するゆえ。

 

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2 COMMENTS

雅之

>グールドの常套であったうなり声や鼻歌、あるいは椅子のギシギシ鳴る音が収録されていないというだけで「違う」と感じるのだから人間の知覚というのは不思議なものだ(聴く行為において、音楽以外の自然音がいかに重要かということだ)。

古本屋に売ろうと選んだ一冊を久々に読み返したら、じつに的を得たいいことが書いてあったことを再発見しましたので、紹介したいです。

・・・・・・ 目は閉じると見えなくなるので、見たくない物は見なくて済ませることができるが、耳は閉じることができないから、ある特定の音を聴かずに済ますなどということは、一般的にはできない。これはあくまでも一般的な聴覚の話である。耳は常に外界に向けて開かれていて、音波としての刺激は平等に耳には届くが、じつは平等さが保たれるのは鼓膜にいたるまでだ。鼓膜から先は耳という器官の精密な構造とそこに張り巡らされた神経が働く領域になり、脳との連携プレーで音波は音として知覚されることになる。

脳は100人100通りだから、この段階で音波の平等性は失われることになる。さらに、脳に届いた音波は脳内に蓄積されたさまざま音の記憶と対照されて、その人の聴く音となる。したがって、厳密にいえば、一つの音でも聴く人によってそれぞれ異なってしまうのである。

人は脳という高性能コンピュータと耳という器官が連動して音を聴いているのだと考えられる。聴覚生理学でも、音は記憶とともに保存されているから、聴きなれた音は覚えやすいとか、心地よく感じられると説明されている。では、脳にはどのような形で音や音楽の記憶が記録されているのだろうか。これはまだ十分には解明されていないが分子生物学者の福岡伸一氏は『動的平衡』(木楽舎)で、記憶について次のような説明を試みている。

脳にある刺激が入力されると、クリスマスのイルミネーションのように明かりが順番にともり星座のような形を作る。これが神経回路だ。脳内の神経細胞のタンパク質分子は、合成と分解を受けてすっかり入れ替わるが、細胞と細胞が形作る神経回路の形は保持される。あるとき、過去に体験したのと同じ刺激を受けると、それは活動電位の波となって伝わり、順番に神経細胞に明かりをともす。ずっと忘れていたにもかかわらず、回路はかつて作られたときと同じ星座となってほんの一瞬、青白い光を発する。

なんとも美しい説明である。同じ音でも聴く人が違えば、その印象も変わる。その不思議は、記憶された音の星座の形が人それぞれに異なるからなのかもしれない。・・・・・・

「音、音、音。音聴く人々」オーディオテクニカ編著 幻冬舎から、「Column 頭の中の音の星座」(著者名 記載無し)P59より

https://www.amazon.co.jp/%E9%9F%B3%E3%80%81%E9%9F%B3%E3%80%81%E9%9F%B3%E3%80%82-%E9%9F%B3%E8%81%B4%E3%81%8F%E4%BA%BA%E3%80%85-%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%86%E3%82%AF%E3%83%8B%E3%82%AB/dp/4344998413/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1498652168&sr=1-1&keywords=%E9%9F%B3%E3%80%81%E9%9F%B3%E3%80%81%E9%9F%B3%E3%80%82%E9%9F%B3%E8%81%B4%E3%81%8F%E4%BA%BA%E3%80%85

これは示唆に富んだよい本だったので、やっぱり売るのをやめました(笑)。

※一部打ち間違いを修正しました。申し訳ありませんが、できれば最初のコメントを削除してください。

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岡本 浩和

>雅之様

なるほど、確かに良いこと書いてますね!
耳と聴覚の不思議というか神秘というか、すごさをあらためて思います。

そもそも刷り込まれた記憶が人類皆異なるわけなので、1つの作品が73億通りに聞こえているという事実に驚愕です。良い書籍を紹介いただきました。
ありがとうございます。

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