アマデウス四重奏団ほかのブラームス弦楽六重奏曲作品18&作品36を聴いて思ふ

brahms_clarinet_quintet_amadeus新宿中央公園の最期の蝉の合唱。
道すがらの鈴虫の声。
晩夏と初秋の交わる点。
時の移ろいを身に染みて感じながら聴くヨハネス・ブラームスの音楽は優しくて悲しく、そして勇敢で解放的。弦楽六重奏曲には、あらゆる感情が渦巻く。
セシル・アロノヴィッツとウィリアム・プリースを加えたアマデウス四重奏団によるものは、一世一代の名演奏であり、それこそ「意思」を超えた「自由」を体現する。何より音楽の自然な流れ、時間の移ろいを違和感なく表現する奇蹟がここには在る。少なくとも僕が耳にした中では随一。

刻一刻と時間は流れているのである。
しかも、二度と同じ「時」は来ず、常に「変化」の内側に僕たちがあることを自覚した方が良いだろう。本来、一期一会の音楽芸術は「録音」の出現により幾度も繰り返し鑑賞することが可能になったのだが、それでも「音」がいつも消えてなくなることについては普遍。集中して音に身を委ねよう。

作品18第1楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポの憂愁。淡い恋の投影も確かにあるが、晩年同様の諦念に満ちることを見逃すまい。そもそも内声を強化すること自体がブラームスの「暗さ」を示す。とはいえ、「生きる」とはそういうことなのだ。自身が思い描いたように進むのも人生であり、苦悩に押し潰されるのもそれ。何はともあれ希望を捨てないことだ。
第2楽章「主題と変奏」における、ひとつひとつ歩を地道に進めながら変化を楽しみ精進する様はまるでブラームスの生き様そのもの。作曲者の悩みは終わりない。これほど愛らしくも深い音楽をブラームスは二度と書けなかったのでは?
そして、第3楽章スケルツォ主部の駆け上がってゆく明朗な音調に興奮し、終楽章ロンドを迎える。6つの弦楽器の見事なバランス。高弦がうねり、低弦が支え、中弦が歌う。

ブラームス:
・弦楽六重奏曲第1番変ロ長調作品18(1966.12録音)
・弦楽六重奏曲第2番ト長調作品36(1968.3録音)
アマデウス四重奏団
セシル・アロノヴィッツ(第2ヴィオラ)
ウィリアム・プリース(第2チェロ)

続く、作品36第1楽章アレグロ・ノン・トロッポにおける抑圧と、一気に解放に向かうカタルシスの妙。恋人であったアガーテ・フォン・ジーボルトが微笑む。
哀感満ちる第2楽章スケルツォを経て、第3楽章ポコ・アダージョの幽玄。ここでも内声の豊かさが堂に入り、聴く者を夢の世界に誘う。やはりこの演奏は唯一無二。
そして、それこそブラームスの音楽だけしか感じさせない終楽章ポコ・アレグロの目覚め。
なるほど、ここには「恣意」がないのである。
あくまで自然体、脱力のブラームス。
永遠が在る。

 

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2 COMMENTS

岡本浩和の音楽日記「アレグロ・コン・ブリオ」

[…] ブルックナーの音楽は一度や二度聴いたところで理解はできない。 繰り返し聴き、あるとき突然見えるもの。だからこそそこには永遠がある。 アマデウス四重奏団とアロノヴィッツによるアンサンブルは、同じ頃録音されたブラームスの五重奏曲や六重奏曲の名演奏に匹敵する素晴らしさ。 […]

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