原点に戻ろう~ハンマークラヴィーア・ソナタ

40にして惑わず、という。
齢48の僕は、未だに惑う。
元来がお人よしなのである。「”No”と言えない日本人」さながら、求められれば何でも請け負ってしまう。その結果、いっぱいいっぱいになり、ある意味すべてが中途半端に終わってしまう。原点に戻ろう。後輩の結婚披露宴に出て、めでたい席上で久しぶりの面々と顔を合わせ、ふとそういう心持ちになった。抱え込み過ぎている一切をこの際整理して、本来自分が目指そうとしていたものを思い出し、そこに集中しようと。

僕の生来のテーマは「和を拡げる」ことであると自負する。そして、そのツールとなるのが「音楽と人」というキーワード。確かに25年に及ぶキャリアにおいてそれだけに身を捧げてきた。逆に言うと、他はできない、あるいはやりたくない。ならば、そのことに一切を賭けないと申し訳ない。そんな想いが過った。

3度目の停滞期(1814年~16年)を経て、ベートーヴェンは生まれ変わったように深遠かつ宇宙的拡がりを持つ作品を創造するようになる。完全に聴覚を失った楽聖の心には一体何が響いていたのか?外界の出来事の一切、すなわち「幻想」を遮断して、自らの真実に向かい合ったときに本当の芸術が生まれ、人としての真実の愛に目覚める、そういうことが彼に内に起こったのだろうか・・・。

停滞とは夜明け前。腹を括ってすべてをゼロに戻したときに、やらねばならない事柄が眼前に現れる。ベートーヴェンの遺書も「傑作の森」も、結局は1818年以降の、神がかり的世界に奉仕するための前哨戦に過ぎまい。

突如として開かれたコスモス。久しぶりにハイドシェックの弾くハンマークラヴィーア・ソナタ(旧盤)と対峙する。

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ第29番変ロ長調作品106「ハンマークラヴィーア」
エリック・ハイドシェック(ピアノ)

1818年という年をまるまる費やして生み出されたこのソナタの真髄に近づくのは並大抵でない。今の僕と同じ年齢の48歳時の作品だと考えた時に恐ろしくなる。これほどまでに深い世界に程遠い僕は、この音楽を聴いて自らを戒め、そして鼓舞する。聴覚を失ったベートーヴェンは結果的にすべてを放棄した。その時に見えたものは何なのか?それこそが第9交響曲のテーマである「ひとつになる」、いや、もともと「我々はひとつだった」んだという精神。最後のソナタとはまた違った意味で身も心もひとつにならざるを得ない「永遠」のアダージョ楽章。
そうだ、ここにこそ「答」がある。
「音楽と人と」。


5 COMMENTS

雅之

おはようございます。

先日、朝日に、《「将棋はわからないこと多い」羽生二冠、自らの敗因分析》という記事がありました。第70期将棋名人戦七番勝負で敗れた羽生善治二冠(41)へのインタビューです。

・・・・・・勝負にかける思いにも、変化はあるようだ。「対局を繰り返す日々も無限に続くわけではない。一局の大切さを以前より強く感じている」
(中略)
羽生は今、将棋の真理を突き詰めることに「興味半分、怖さ半分」と言う。以前は「突き詰めたらおもしろい」と思っていた。今も「さらなる可能性がひらけるのか」と期待するが、一方で「指す手がなくなり、その先は意義も意味もない世界にならないか」との思いも抱く。それは上り詰めていく者だけが垣間みる、ある種の虚無だろうか。
 敗北を経て「結局、将棋はわからないことが多い」と改めて感じる。ただ「わからないなりに積み重ねていけば、それなりの成果がある。そう信じて、続けてゆくしかない」と語った。・・・・・・

音楽の趣味についての現在の私の境地にも、羽生さんの言葉と似たことが言えるのではないかと思いました。
「音楽を聴く日々は無限に続くわけではない。一回の演奏会やCDで音楽を聴く時間の大切さを以前より強く感じている」
音楽の真理を突き詰めることに「興味半分、怖さ半分」であり、以前は「突き詰めたらおもしろい」と思っていた。今も「さらなる可能性がひらけるのか」と期待するが、一方で「音楽について突き詰めたら、その先は意義も意味もない世界にならないか」という予感が強く、そして、「結局、音楽はわからないことが多い」です。

音楽に対しどんどんマニアックになると、結局、ある演奏家、ある演奏、ある解釈について好き嫌いをこだわり過ぎて、他を認めなかったり批判的になったりしがちになり、それこそ「和を拡げる」と真逆な態度になります。ですから、他人が演奏する音楽をただ鑑賞するだけの趣味については、最近は、極力ニュートラルな接し方をしようと心がけています。演奏による差異について、演奏家の多様な個性を楽しみたいのです。聴く側のプライドなんて笑止千万だと思っています。

音楽の評価基準が、詰まるところもし好き嫌いだけだとしたら、それこそ男女関係と同じで、今日嫌いでも明日好きになることもあり、その反対もあるでしょうしね・・・(笑)。

今、私がマニアックに好き嫌いにこだわるのは、将棋や鉱物蒐集など、他の趣味に特化したいのです。

というわけで、『ハンマークラヴィーア』も、ハイドシェックだろうとポリーニ
http://www.hmv.co.jp/product/detail/221210
だろうと、人間の個性は等価なので、今の私にとっては誰の演奏でもOKなのです。

♪ 
ちょっとぐらいの汚れ物ならば
残さずに全部食べてやる
Oh darlin 君は誰
真実を握りしめる ♪


愛はきっと奪うでも与えるでもなくて
気が付けばそこにある物
街の風に吹かれて唄いながら
妙なプライドは捨ててしまえばいい
そこからはじまるさ ♪

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雅之


あるがままの心で生きられぬ弱さを
誰かのせいにして過ごしてる
知らぬ間に築いてた自分らしさの檻の中で
もがいているなら
僕だってそうなんだ ♪

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岡本 浩和

>雅之様
おはようございます。
羽生さんの記事は僕も読みましたが、それについての雅之さんの感想、すべて同意、同感です。
将棋には全く詳しくない僕ですが、すべてに通じるなと思います。

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畑山千恵子

ハイドシェックのベートーヴェン・ツィクルスは、全曲できずじまいで終わってしまいました。ハイドシェックの手の具合が悪くなったからです。尻切れトンボで残念でした。
それでも、ハンマークラヴィーアは弾き直しがあったとはいえ、素晴しいものでした。ベートーヴェン・ツィクルス、ペーター・レーゼル、ゲルハルト・オピッツ、どちらも聴きに行っては感動しました。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
こんばんは。
例のハイドシェックのツィクルスは僕も通いました。
ハンマークラヴィーアは弾き直しでしたが、貴重な体験だったと思います。
ペーター・レーゼル、ゲルハルト・オピッツいずれも行けなかったのですが、素晴らしかったようですね。

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