いかにもシベリウスらしい精神に溢れた音楽が聴こえる

ムラヴィンスキーのチャイコフスキーを久しぶりに聴いて、一糸乱れぬ直線的(?)解釈の中に直線を持たぬ「自然」が宿るところにムラヴィンスキーの偉大さがあるのではと考えた。共産主義の中では神は否定されたが、個人の内にある信仰までを剥奪することは当然できない。例えば旧ソビエト連邦の芸術家たちの多くは二枚舌を使ったり、体制に迎合するかのように見せながら、実に本音のところでは神に仕えていた(といえるのでは?)。なぜなら音楽をするという行為自体がそもそも宇宙や自然への賛美であり、当然それは目に見えぬ「偉大なるもの」への畏怖を表すものだから。
プロコフィエフだってショスタコーヴィチだって皆同じだったと思う。ただし、そのことは僕の勝手な推測。少なくともムラヴィンスキーの奏でる音楽が古びることなく、「常に時代に追いつく」様子を聴きながら感じたこと。

ムラヴィンスキーの珍しい音盤を漁った。リヒャルト・シュトラウスの「アルプス交響曲」というのも自然讃歌であり、ムラヴィンスキーらしい、一見淡白でありながら実に色濃い内容を持つ。かつてはこんな曲も指揮していたんだ、と。あるいはシベリウスの第3交響曲。先人の影響を脱し、シベリウスが自身のアイデンティティをようやくつかみ取った、その頃に創造された「自然讃歌」。後期のあまりに内省的な楽曲群と、初期のナショナリズムに満ちた作品群とのちょうど架け橋を為す。

シベリウス:交響曲第3番ハ長調作品52
エフゲニー・ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団(1963.10.27Live)

すでに50年近い時を経過しているが、まったく古びない。
ここにはシベリウスの、いかにもシベリウスらしい精神に溢れた音楽が聴こえる。
この交響曲を作曲していた頃、シベリウスは喉のポリープが見つかり、手術を受けた。当然その後飲酒と喫煙は禁ぜられたが、そのことによって作曲者は自らの人生を大いに振り返らざるを得なかったろうと推測される。しかし、そこに在る音楽は思ったほど内省的なものではなく、むしろ自然というものを謳歌し、開放的に大自然と一体化するシベリウスの心、歌が聴こえるのだ。(とはいえ初演の時聴衆は随分戸惑ったのだと・・・)。

ちなみに、本盤はこの作品のソビエト初演時の記録らしい。それにしては僅かの咳払いを除きほとんど客席の雑音が聴こえない。それほどに観客も緊張感を持ったコンサートだったのだろうか。あまりに激しいフォルティッシモ。旧い録音のせいか相当の音割れがするが、これほどまでに壮絶な第3交響曲が他にあろうか(特にティンパニの轟音!!)。

それにしてもボーナス・トラックにわざわざ疑似ステレオ化バージョンを加えたことが不思議。なくもがな。


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