
もったいぶった、聴衆をおちょくるような個性に満ちた表現がそこにある。しかし、音楽はいつどんなときにも説得力があるから不思議だ(少なくとも録音を聴く限りにおいて)。
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ブレーメン・フィルの「エロイカ」を評して、浅岡弘和氏はかつて次のように書いた。
クナッパーツブッシュは至高、至純の高みから下界を見下ろしたのではない。彼は一歩退いた所からおどけて意見を述べたのである。己の愚かさ小ささをわきまえた者即ち羞らいを持つものなら自己主張にはこれ以外手はないと思わずにはいられない。「立て、我も人なり」。内におどけ心を抱きながら外では目に見えぬ何か、即ち芸術、宗教の真の終着点に向かって天に届けとばかりに、「がおう」と吠えてみせたのである。
~浅岡弘和「二十世紀の巨匠たち」(芸術現代社)P167
特に、「がおう」と吠えてみせたというのが言い得て妙。この言葉はそのまま彼のハイドンやブラームスにも当てはまる。
古い音からも感じられる、生々しい重低音にまずは卒倒する。
あの独特の、奇を衒った(?)、人を食ったようなテンポがクナッパーツブッシュの至芸の一つ。ほとんど肩透かしを食らわせるかのように、わざと聴衆の期待を削ぐかのような外見を呈しながら、その実、音楽の内側に秘めた官能という芸術性は、他を冠絶する。晩年のライヴの凄絶さ。
十八番のハイドンの終楽章アレグロ・コン・スピーリトの見事な遊びに思わず笑みがこぼれる。それでいて耳が慣れて来ると、つい正当化したくなるほどのあまりの音楽的熱量!!
あるいは、ブラームスのニ長調交響曲の、堂々たるテンポと灼熱のうねりにクナッパーツブッシュの巨大な創造物に畏怖の思いを抱く(何より終楽章アレグロ・コン・スピーリトの咆哮と火の玉の如くの音塊の壮絶さ!!)。
そして、ブラームスのヘ長調交響曲に漲る何と途切れぬ緊張感。第1楽章アレグロ・コン・ブリオの、いつものように高鳴る金管群の表情はクナッパーツブッシュの本懐。恐るべきは、やはり終楽章アレグロ!浮いては沈み、沈んでは浮く憂愁は、ブラームスの沈潜する心の襞を解放するマジックのよう。何よりクナッパーツブッシュの音楽への深い思念がこもる。
さらに、リヒャルト・シュトラウスの「死と変容」の無骨な(無垢な)美しさ。主部への突入を知らせる炸裂するティンパニの怒号に思わず目が覚める。とはいえ、その後の音楽は実に官能の極み。終局に向かうにつれ、音楽は外へ外へと拡散し、(シュトラウスの天才の最たる)浄化の瞬間の陶酔は、指揮する老クナッパーツブッシュすら涙にむせるよう(無情に)。