音楽とは啓発であり、啓示である

音楽とは啓発であり、啓示である。
それも文字通り音を楽しむことで、ひとつひとつの音に、あるいは音の連なりに創造者によって込められた「意思」をキャッチすることが大切。難なくこなすには「感じる」ことだ。何気なく取り出して聴いた歌詞からはっとした気づきを得ることもあれば、その音楽が生み出された背景を知ることで、今の自分に必要な「こと」が降りてくるということもある。
「生き方」とは別の次元にあるように思えるが、決してそんなことはない。だから僕は止められない。音楽に埋もれるということが好きで堪らなく、愉しくて仕方がない。

僕自身がこの世の中に欠片も存在していない頃の、例えば戦中のフルトヴェングラーの記録とか、戦前のワルター&ウィーン・フィルの録音とか、あるいはもっと前の20年代のワインガルトナーがSP録音したものとか、レンジの狭い靄のかかったような音の向うから、何とも言えない懐かしさと悦びが湧き上がり、気がつくと音の旧さを忘れて、音楽に浸っている自分に気づく。それはもう10代の頃から。
そもそもクラシック音楽というのが200年、300年前に創造された音楽なのである。
1700年代の、西ヨーロッパの「ある地域」で生み出されたハイドンやモーツァルトの音楽が、時を超えて極東の地でも再現され、それを耳にすることで時に涙が出るほどの感動を覚えること自体、形を持たない「音楽」の神秘であり、不思議である。「音」が作曲家というパイプを通ることで「綾」となり、表現し難い「美しいもの」に変化するのだから。

ハイドンのオラトリオ「四季」を聴いていて、そんなことを考えた。当時の農民の暮らしを音化しながら(それらの姿を借りながら)、自然や人や、そして宇宙万物の「意味」、生きとし生ける者への祈りを作曲家は織り込んだ。同時期のオラトリオ「天地創造」も聖書の物語を借りながら同様に。ただし、ハイドンの最高傑作たちをここで云々するのは少々早い。いずれ理解がもっと深まった時点で書いてみたい。

ワインガルトナーの指揮によりモーツァルトとベートーヴェンを。
ワインガルトナーはいくつかの交響曲や室内楽曲を残している作曲家でもある。ベートーヴェンのハンマークラヴィーア・ソナタや大フーガの管弦楽編曲も手掛けた。20世紀前半という時代の趨勢もあり、ともすると恣意的な、意思の塊のようなモーツァルトやベートーヴェンが聴けるのかと思っていたが、出てきた代物は極めて客観的で優雅なもの。

モーツァルト:
・交響曲第39番変ホ長調K.543(1928.4録音)
ベートーヴェン:
・交響曲第8番ヘ長調作品93(1927.1録音)
・「プロメテウスの創造物」序曲作品43(1936.2録音)
フェリックス・ワインガルトナー指揮ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

しかしながら、そういうところにこそワインガルトナーという指揮者の「意思」が感知でき、興味深い。
モーツァルトのK.543はフリーメイスン音楽である。しかし、彼にとってそんなことはどうでも良かった。貧困に苦しむ晩年のモーツァルトの中に在る「素朴さ」(それはマリー・アントワネットに「結婚してあげる」と言った無邪気な側面に等しい)を直接に、ありのままに表現しようという思いしかなかった。だから、とても哀しく、なおかつとても明朗だ。
そうか、なるほど。三大交響曲というのはモーツァルトにとって過去を清算するための手段だったんだ(メイスンはその手段のひとつだったのかも)。これらによってカタルシス、そしてようやくそれまでの事実のすべてを受け容れることができたということか。

十八番のベートーヴェンの第8番にも言えるが、何よりワインガルトナーのテンポ感が見事。それに呼吸に無駄がなく、余裕がある。それと、もうひとつ。「プロメテウス」が良い。いや、多分音楽の素晴らしさをアンセルメで再確認したばかりだから、その余韻が抜け切っていないだけだろうが。

今宵、ワークショップZEROに関わっていただいた人々との忘年会。素敵なひとときでした。

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