マタチッチ&N響「ワーグナーの夕べ」(1975)

リヒャルト・ワーグナーやアドルフ・ヒトラーが100年先まで見通す能力を持っていたという「嘘か真か」と思われるような説がある。ほとんど眉唾物だと解釈した方が良いのだろうが、意外にそうかもと思わせられる節もあるから面白いものだ。
ワーグナー作品の根底に流れる「女性の愛による救済」や最晩年の、特に「パルジファル」での『共苦』という思想、あるいは動物愛護の見地からの彼自身の「菜食主義」という生き方を知るにつけどうもそのあたりが信憑性を持つ言説のように僕には思われてならない。
それと、ワーグナーとヒトラーを並べると必ず言及される「反ユダヤ主義」という点についても、言葉や事象を表面的に捉えたのでは決してわからないだろう「真相(真実と言っても良いかも)」があるのではと以前から僕は考えている。

例えば、「反ユダヤ」というものもユダヤ人そのものを指しているのではないのでは?なぜなら「ユダヤ」という人種がそもそも存在しないわけだし、彼の思想の根幹を理解し、その宇宙的規模の音楽を心から享受すれば彼のもつ「全体観」が自ずとわかるから。彼の総合芸術たる「楽劇」は単に自己顕示のための伊達や酔狂ではなくもっと大きな、大いなるものからのインスピレーションによって生み出されたものだと思えるし。
広瀬隆氏の綿密な研究に基づくかつての書籍を読みながら、ここでの「ユダヤ」とは特定のある財閥に向けられたものではなかったかと僕は妄想する。少なくとも当初は・・・。ヒトラーについても然り。しかしながら、彼の場合あまりに「不安」や「抑圧」から来る精神異常がひどかった。先の広瀬氏の書を繙くと、ナチスがかの財閥と手を組んでいたこと、そしていわゆる大量虐殺のターゲットになったのはあくまで下層の一般庶民だったことなどが暴かれていて興味深い。ヒトラーもある時、エゴに負けたのだろう。

こんな風に書き連ねると僕が危ない思想の持ち主なのだろうかと訝る人もいるかも・・・。
断っておくが、僕は左寄りでも右寄りでもない。特に「こうだ」という思想や信条があるわけでもない。ともかく世界というシステムが僕たちの意志では簡単に動かせない「何者か」に牛耳られていることを知るにつけ、そのことを嘆かざるを得ない。少なくとも世間が真の意味で平和になり、もっと人々が調和に向かう、そんな世界になればいいなと心底思うだけ。

友人からシェアーがあったFlying Dutchman(何と「さまよえるオランダ人」!)の”Human Error”と題する反原発ライブの映像を観てそんなことを考えた。衝撃である。(20分弱の映像、ぜひ観てください)

そして、僕には彼らの音楽に、バンドの名の通りワーグナーが感じられた。ワーグナーは200年近く前のあの頃から警告を発していたのだ。最後の、崇高な「パルジファル」抜粋を聴くに及び彼が単なる自己中心的で傲慢な男だったようには思えない。あんなにも巨大な音楽を、それもいくつも創造できる力、それは極めて精密な「全体観」によるものだろうし、何より「上」からのインスピレーションの賜物に思えるのだ。それこそC.G.ユングの言う「集合的無意識の作用」により「すでに幼少期に、未来の異常な発展を暗示するようないろいろと変わったことが観察された」のだろう。ユングはそのことを「精神病者」を例にして言及するが、ワーグナーたち天才はある種「精神病者」のようだし(笑)。少なくとも僕たち常識人とはまったく異なる感覚の持ち主ゆえ。

思わずマタチッチが1975年にNHK交響楽団に客演した際の実況録音、「ワーグナーの夕べ」を聴いた。上記のようなことを考えながらだったからか、これまでに感じなかった深層まで入り込んだみたい。言葉をなくすほど素晴らしい。

ワーグナー:
舞台神聖祝典劇「パルジファル」~
・第1幕への前奏曲
・聖金曜日の音楽
楽劇「ジークフリート」~
・森のささやき
楽劇「神々の黄昏」~(マタチッチ編曲版)
・序奏~ジークフリートのラインへの旅~
・ジークフリートの死~葬送行進曲~終曲
ロヴロ・フォン・マタチッチ指揮NHK交響楽団(1975.12.4Live)

今のN響に比較して技術的には劣るところはあるものの、指揮者の愚直でありながら壮絶な解釈に見事に反応して類稀なワーグナー像が浮かび上がる。「パルジファル」抜粋が堪らない。


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