久しぶりにショスタコーヴィチ熱が・・・

shostakovich_stringquartet_emerson.jpgここ2,3日、ピアノ部屋からショスタコーヴィチが流れている。妻がチェロ・ソナタの初合わせのため集中的に練習をこなしているのだが、かなり難易度は高いらしい。僕にしてみるとどんな音楽も同様に難しいようにみえるのだが、20世紀の、それもプロコフィエフやショスタコーヴィチの音楽作りは精緻にして独特で、相当に手強いのだと。今後耳にタコができるほど聴くことになるだろうから、楽曲の新たな側面を知り、いろいろと勉強させてもらえる機会なので好都合といえば好都合なんだけど。以前採り上げたマイスキー&アルゲリッチの実況録音盤は、楽譜の指定を無視して二人が超絶技巧を駆使して激突、まさにぶつかり合う超名演奏である。一方、これも前に採り上げたヨーヨー・マ&アックスのスタジオ録音盤。こちらはどちらかというと楽譜通りにあくまで正当に音楽を創り上げるこれまた名盤だと思うが、マイスキー&アルゲリッチ盤の後に聴くと、気の抜けたサイダーのように「つまらない」演奏に感じてしまうから、人間の感覚というのは面白いものである。要するに、より刺激的なものが前に現れると、人の気持ちはそっちについつい行ってしまうということなのである。

音楽の嗜好でなら許されるだろうが、人間関係、ましてや恋愛などでそのような癖をもっていると後々大変なことになる。話は少々飛躍するが、幼少時の極端な「ストローク不足」が原因で、常に満たされず、(無意識に)自身の安定のための対象として恋愛をしてしまう人たちがいる。そう、彼らにとってみれば恋人はあくまで依存の対象なのである。長い間、人間研究をやってきて、アダルト・チルドレン(略してAC)という概念を初めて知った時、重度のAC症候群の人たちの多くがそういう恋愛に陥りやすいということを知り、愕然となった。人間にとって精神的にも物理的にも「満たされること」-つまり、人を愛し、そして愛されるという体験が極めて大切なんだということを再確認した。

外出から帰ったらちょうど「合わせ」が終わる頃だった。独りで練習している時に比べ、パートナーのチェリストが傍らにいて、スコアを片手にああだこうだと解釈を戦わせながら練習すると俄然やる気になり、自身の演奏も格段に上手くなるのだと。音楽もコミュニケーションなり。

ショスタコーヴィチ:
・弦楽四重奏曲第7番嬰ヘ短調作品108
・弦楽四重奏曲第8番ハ短調作品110
・弦楽四重奏曲第9番変ホ長調作品117
・弦楽四重奏曲第10番変イ長調作品118
エマーソン弦楽四重奏団

全集からの1枚。1960年に作曲された2曲と1964年に生み出された2曲。ショスタコーヴィチの曲はどの曲をどこから聴いても一聴ショスタコの音楽とわかる独特の響きをもつ。諧謔性を帯びた何ともいえない彼らしい旋律が出てくると胸踊りワクワクする。それにまた、エマーソン弦楽四重奏団の演奏は現代的で情に流されない鋼のような響きをもつところが良い。嗚呼、久しぶりにまたショスタコーヴィチ熱が・・・。

たかだか一日断食をしたからどうというわけでもないと思うのだが、絶食をした翌日はすこぶる気持ち良い朝が迎えられる。特に暴飲暴食を繰り返しているわけではまったくないが、久しぶりに「デトックス」気分になり、丸一日「水」のみで過ごした。それも、「キパワーソルト」を溶かした塩水である。

2 COMMENTS

雅之

こんにちは。
愛知とし子さんのチェロ・ソナタのプロジェクト、いよいよ始まるんですね!聴きたいなあ! いいなあ!愛知の音楽性とショスタコは、相性が良さそうだと、先日発売のCDを聴いても感じたところです。ベートーヴェンの「月光」との関連でいえば、ヴィオラ・ソナタもリクエストしたいところです(笑)。
>より刺激的なものが前に現れると、人の気持ちはそっちについつい行ってしまうということなのである。
マイスキー&アルゲリッチ盤も自由奔放で好きなんですが、私のこの曲に求めるものとは少し違う気がします。ヨーヨー・マ&アックス盤は尚更です。多分想像ですが、愛知さんのストレートな音楽性の方が、アルゲリッチよりショスタコに意外に合っていると、私は思います。
エマーソン弦楽四重奏団の演奏も、スタンダードですね・・・、しかし作曲家との同時代性の共感はあまり感じません。
今回、コメントが、なんでこんな論調になってしまったかといったら、先日、ニコラーエワの1962年初録音の「24の前奏曲とフーガ」を久しぶりに聴いたから・・・。
http://www.hmv.co.jp/product/detail/3628199
あの時代のあの国の独特の雰囲気の正体は、いったい何だったのでしょうか?
愛知とし子さんとチェリストさんにリクエスト! 一度でいいから、ショスタコのチェロ・ソナタを日比谷公会堂でも演奏していただきたいです。
・・・・・・いまは、カラヤンのはじめたワインヤード型のコンサートホールがはやりで(サントリーホール、川崎ミューザなど、観客席がステージを囲むかたち)、音も十分に響いて包まれるつくりになっている。『演奏者と観客が対峙する』のではなく、『おたがいおなじ場所にいる』という柔らかい関係。でも、そうではなくベートーヴェンやショスタコーヴィチの音楽が相応しいような『対峙する場所』があってもいい。それは、人間の人生に必要な厳しい部分なんじゃないでしょうか。「音楽は楽しいよ、喜び、癒しだよ」というだけではなく、演奏家と観客がギリギリのところで対峙する場面がある、そういうホールもあるべきだ。・・・・・・井上道義
http://openers.jp/culture/tokyo_classic_stage/inoue_michiyoshi02.html
井上道義の言葉、よく引用して恐縮ですが、何となくこの言葉が身に沁みる今日このごろです。

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岡本 浩和

>雅之様
こんばんは。
いよいよ始まります。楽しみです。ぜひ雅之さんにも聴いていただけるよう名古屋方面でも披露できるといいですね。
>愛知さんのストレートな音楽性
愛知とし子がショスタコと相性が良さそうと見抜かれたのはさすがですね。本人もロシアものは血が騒ぐらしいです。
>ベートーヴェンの「月光」との関連でいえば、ヴィオラ・ソナタもリクエストしたいところです(笑)。
ヴィオラ・ソナタ!!!では、ヴィオリストはぜひ雅之さんに!
>エマーソン弦楽四重奏団の演奏も、スタンダードですね・・・、しかし作曲家との同時代性の共感はあまり感じません。
確かに同時代性というあたりを突き詰めると面白そうですね、特にショスタコの場合は。
>あの時代のあの国の独特の雰囲気の正体は、いったい何だったのでしょうか?
やはり社会主義という特別な環境、スターリンの独裁という今でいう北朝鮮に近い閉じられた世界の中では、ひょっとすると我々が想像し得ない長所と短所があるのかもしれません。音楽家がいわゆる公務員であったがゆえに(それはスポーツ選手の場合もそうですが)、だからこそ余裕をもって技を磨けたという点が見逃せないと思うのです。生と死の狭間で生きた、切羽詰った環境でこそ(戦国時代の千利休の茶の湯と同様)真の芸術が生まれえるというのは真実でしょう。
とはいえ、その時代はその時代、新しい解釈での現代的な演奏も僕はそれはそれで良いのだと信じます。ある意味同時代に、しかも同じ場所で同じような境遇を味わった者の間でしか通じないものは普遍的ではありますが再現不可能ゆえ、いたしかたないと思うのです。
井上道義氏の言葉意味深いです。勉強になります。
>一度でいいから、ショスタコのチェロ・ソナタを日比谷公会堂でも演奏
これは名案です!しかし、日比谷公会堂を埋めるにはもう少し年季がいりますねぇ(笑)。

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