グールドのハイドンを聴いて

昨日の続き。
グレン・グールドのモーツァルトは、こういうやり方もあったのかと、あらためて再生芸術のあり方、可能性を示してくれる好例であると思った。作曲家が示した楽譜の読み方はいろいろなのだと。特に、あの時代のスコアは非常に簡潔に書かれており、奏者に解釈が随分委ねられている。だから、たとえ時代考証に優れた学者たちが「あれは違う」といくら申しても、聴く側が面白いと思えば、あるいは嫌感を持たなければどんな表現だってありなんだ。ましてや200年、300年前の音楽は即興が当たり前だった。たまたま作曲家がひとつの形として残しただけで、どんな風にアレンジしても当時の人々は非難することはなかっただろうと想像される。

ちょっと考えた。
そういえば、オットー・クレンペラーが晩年に録音したブルックナーの第8交響曲の大幅なカットの問題。あれはいわゆる奇盤・珍盤という類だけれど、彼がどうしてそういう「暴挙」に及んだのかを推理して楽しめるという意味では最高に興味深いものだと僕は思う。
その理由は本人にしかわからないものだが、ひょっとすると本人にもわからないものかも。というのも、少なくともブルックナーの第8番の場合、他の実況録音などでは一切そういう冒険はしていないから。多分、その時の気分、あるいは魔が差したとしか思えない(クレンペラーはその理由を問われたときにいろいろと御託を並べているが、すべては後付けのものだとしか思えないし)。

でも、グールドの場合は明らかに違う。いかにも感情論的にモーツァルトを切り捨てているようだが、もしも本当に「シラミ」だというなら再録音なんてしないし、ましてや全集なんて絶対に作らない。その証拠にショパンやシューマンといういわゆるロマン派の作品群は(おそらく)ひとつも残していないのだから。
愛と憎悪とは表裏一体というが、あれはグールド特有のアマデウスへの愛なんだと僕には思えてならない。昨日は「壊した」と表現したが、もちろん破壊を前提に、モーツァルトの可能性をもっともっと広げて見せたかったのではと思うのである。それくらいに何だか忘れられない音楽たち。

ところが、同じ古典派でもハイドンに関しては少々違う。破壊どころか、ひとつひとつをとても大事に扱う。それこそ彼にとってハイドンはバッハと同格だったのかと思われるほど。それは最晩年の後期ソナタ集を聴くことで一層理解できる(例のゴルトベルク変奏曲再録とほぼ同時期に録音されたことがそれを如実に示す)。

ザ・グレン・グールド・コレクション
ハイドン:
・ピアノ・ソナタニ長調Hob.XVI:42(1981.3.11録音)
・ピアノ・ソナタハ長調Hob.XVI:48(1981.3.12&5.29録音)
・ピアノ・ソナタ変ホ長調Hob.XVI:49(1981.2.24-25録音)
・ピアノ・ソナタハ長調Hob.XVI:50(1980.10.13-14録音)
・ピアノ・ソナタニ長調Hob.XVI:51(1980.10.14録音)
・ピアノ・ソナタ変ホ長調Hob.XVI:52(1981.2.25&3.13録音)
・ピアノ・ソナタ変ホ長調Hob.XVI:49(1958.1.7-10録音)
グレン・グールド(ピアノ)

変ホ長調第49番は新旧両録音を収める。
しかし、ここにはモーツァルトのK.330ほどの温度差は感じられない。果たしてこれは愛なのか?モーツァルトへのものは異質のそれである。
モーツァルトへの愛が破壊を前提にするとするなら、ハイドンへのそれは創造を前提とする。比較はできない。グールドにとってハイドンとモーツァルトはバッハとは別の意味で「大切な」作曲家だったというわけだ。

今宵、忘年会。
愉しいひと時・・・。
酔い覚ましに深夜に聴くグールドのピアノは格別・・・。


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