何だかすべての人々が希望に満ち、活き活きとして、人生を謳歌している。
どんなに苦しい時でも、明るく朗らかに生きる。そして人と人とが「つながって」今を愉快に過ごす。「バスティーユ襲撃」なるシンフォニーを聴きながら、ここには戦いというより、歴史的事実を客観的に描写しながら、そのことすら「楽しもうとする」音楽家の姿が克明に反映されている気がして、これまでそういう視点で聴いてこなかったものだから、ほんの少し自分の中に衝撃が走った。
古典派周辺を巡る。
ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェン、それにケルビーニなどの音楽を集中的に聴いて思うこと。1700年代の後半から1800年代の初めにかけて、つまりフランス革命に始まるヨーロッパ動乱の歴史の中で創造された芸術作品は、それぞれに「革新」がありながら、一方で多くの一般市民にも(とはいえまだまだ貴族が中心か)享受せられんとする「保守性(わかりやすさ)」がうまく混ざり合っており、とてもバランスに優れているということ(それは構造的な面もそうだが、精神面でとてもそんなような気がする)と、何より200年の時を経て耳にする我々にとってとても「美しい」と感じる音楽が多いということ。
もちろん、この頃の音楽は僕が10代の頃から散々耳にしてきているのだけど、何だか「今」ようやく本質が見えかけてきたように思う。すなわち、ここで音楽は一旦完成し、この後の歴史においてはどんな傑作も人間が感情でもって(無理矢理)作り上げようとした代物ではないかと(まぁ、これも極端に考えたらという前提だけれど)。ベートーヴェンの意味、ハイドンの重要性、またはケルビーニの存在(あるいはサリエリ)、そんなことは正直まったく何も考えずにただ受容してきただけだったから余計にそんなことを思う。
例えば、数年前にタワーレコードのセール籠の中に見つけた1枚のSACD。
カール・ディッタース・フォン・ディッタースドルフの作品を集めたもの。ハイドンとほぼ同時代を生きたこの作曲家についてはほとんど何も知らなかった。彼はハイドンやモーツァルト、そしてヴァンハルと弦楽四重奏を組んだといわれるが真偽のほどは不明。でも、それだけの「能力」に長けた人なのだから、彼の作品にも当然「見るもの」はあるだろうと幾度か耳にしたが、そのまま埋もれてしまっていた。
いやはや、「バスティーユ襲撃」の激情と激動。なるほど、これは間違いなく革命の描写。雄渾さと確信をもって進む歩調と。そして、時折高らかに奏される木管の響きはやっぱり希望の調べ。第2楽章の束の間の安らぎ(何と平和な!)を経て、フィナーレの歓喜。
ハープを中心としたコンチェルトも美しい。