清流のような、爽やかで心地よい音楽。水面に映る、光の反射の如くの音の粒たち。
アントン・ブルックナーの交響曲第6番は、第2楽章アダージョの存在によってその価値を高めているといえば言い過ぎだろうか。あくまで私見だが、この楽章はブルックナーが生み出した音楽の最良の形のひとつであると断言する。
オイゲン・ヨッフムは書く。
ブルックナーの交響曲の頂点は、作品によって異なった所におかれている。例えば「第6」は、私の捉えるところによるなら、既に第1楽章において頂点に達するが、少なくともはじめの2つの楽章が内容的にもっとも重く、それに対して第3楽章はたしかにかなり特異であるとはいえ、第4楽章とともに疑いなく解体傾向をもっているのである。
(オイゲン・ヨッフム/渡辺裕訳「第5交響曲の解釈について」)
~音楽の手帖 ブルックナー(青土社)P228
第5番に比して第6番を軽く見ているような感はあるが、しかしながら少なくともヨッフムが1960年代にバイエルン放送響と録音した同曲の演奏を聴くにつけ、この指揮者こそがバランスを欠いたこの交響曲に命を吹き込んだ最初の人であり、その意味ではこの作品の価値を正しく理解していた人なのだろうと確信する。35年前、初めてアナログ盤で聴いて以来僕のその思いは決して変わらない。
・ブルックナー:交響曲第6番イ長調(1879年/81年稿)
オイゲン・ヨッフム指揮バイエルン放送交響楽団(1966録音)
ブルックナーは自然と神を同期する。何と自然体でありながら人々の共感を呼ぶ音楽であることか。しかし、それはあくまで音楽の表面的なものをさすのであり、彼の本質は極めて俗的であり、それゆえに後年の僕たち「人間」の心をくすぐった。
鬱積した官能的な勢力の霊化は、ブルックナーを多くの神秘家たちに共通して見られる人間の禁欲に起因している(ヤーコプ・ベーメだけが結婚していた)。聖徒物語のような生活こそ、このような芸術の湧き出る真の源泉である。それは、ただ神聖のみを希求するけれども、心の奥底では愛の欲求にもだえている修道士の生活である。ブルックナーは、何度も向こう見ずな全く世慣れていない求愛で愛の欲求を晴らした。そういう生活からのみ、宇宙が擬人的に形成されることができたのであり、運命の力の極めて人間的な作用を形象することができたのである。
(ロベルト・ハース/井形ちづる訳「ブルックナーと神秘説」)
~音楽の手帖 ブルックナー(青土社)P187
抑圧こそが創造の鍵であるとハースは言うのか。フィナーレに木霊する第7交響曲の先取り断片に心震え、何よりその豪放磊落な響きに野人アントン・ブルックナーの天才を思うのである。
ここには鬱積したブルックナー、そして解放されたブルックナーの両面が垣間見える。実にありのままの姿で。
ブルックナーの内側には信仰と理性が見事に共存する。
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