おそらく本人には自覚はないのだろうが、ベートーヴェンのハ短調協奏曲の規範となったモーツァルトの同じくハ短調協奏曲を奏するグレン・グールドは十分に愉しんでいるように思われる。モーツァルトにしては小難しいこの巨大な逸品を、これほど明朗に、そして快濶に表現した例が他にあるのだろうか?
ブルーノ・モンサンジョンとの対話でグールドはモーツァルトについてかく語る。
あの当時わたしが感じたのは、幻滅感だったと思います。わたしの教師たちや、そのほかまっとうに思われる大人の知人たちが、こうした作品を西欧の人間による音楽の至宝に数えるなんて、まったく理解できなかったな。だのにそうした作品を弾く実際の経過はいつもひじょうに楽しめました。鍵盤の上下に指を走らせるのはすごくおもしろかったんです。あのスケールやアルペッジョをみんな餌食にしてね。つまり、たとえばサン=サーンスと同じ類の、鍵盤に触れる感覚の喜びを与えてくれたんですよ。
~ティム・ペイジ編/野水瑞穂訳「グレン・グールド著作集1―バッハからブーレーズへ」P55-56
グレン・グールドは音楽の申し子だ。結局のところ、それが音楽であれば彼は十分満足したのだろうと思う。意味深い第1楽章アレグロの繊細でありながら充実した響きに、ピアニストが十分にモーツァルトに共感していることを想像する(相変わらず鼻歌激しい)。何よりカデンツァの恍惚!
また、第2楽章ラルゲットの透明な歌に、モーツァルトとグールドの至純な精神の投影を思う。何という思い入れたっぷりの演奏。ここは涙なくして聴けぬ。そして、終楽章アレグレットの明るい重みは、モーツァルトの心底にある悲しみを見事に言い当てる。
ハ短調協奏曲作曲当時、「南ドイツの国民新聞」(1786年2月19日)に掲載されたモーツァルトの格言。
・曖昧な美徳より公然の悪徳のほうが私には好ましい。
・美徳を真似しようとする偽善者は、水彩絵画でそれをなぞるにすぎない。
~高橋英郎著「モーツァルトの手紙」(小学館)P353
善悪で物事を図るなと彼は言う。何よりすべてを曖昧にするなと。
・モーツァルト:ピアノ協奏曲第24番ハ短調K.491
ワルター・ジュスキント指揮CBC交響楽団(1961.1.17録音)
・シェーンベルク:ピアノ協奏曲作品42
ロバート・クラフト指揮CBC交響楽団(1961.1.21録音)
グレン・グールド(ピアノ)
興味深いのはモーツァルトとシェーンベルクをあえてカップリングしたこと。
1942年、戦時中の作曲であるシェーンベルクの協奏曲は、いわゆる十二音技法の最たる作品だが、この艶めかしい単一楽章の音楽に、アルノルト・シェーンベルクの終着点、真髄を僕は発見する。
グールドは書く。
モーツァルトK.491からシェーンベルクの作品42まで、150年の歳月が流れた。その間、バロックの達人たちが独奏と総奏の対照効果を上げるために用いたダイナミックスの対比やリズムの強調といった基本的領域にも、変化に富むたくさんの技法が加わった。18世紀の半ばに近いころ、独奏対合奏という観念から生じる音響効果―コンチェルト・グロッソ様式のピアノ対フォルテの要素―が、主題の対比効果を求める新しい交響楽的試みに融け込むことになる。こうして協奏曲は古典的交響曲と並ぶ見世物となった。それ以後、奇特な例外もいくらかあるが、協奏曲の様式的展開は、交響曲形式のそれと切り離しがたく結びついてきた。
~ティム・ペイジ編/野水瑞穂訳「グレン・グールド著作集1―バッハからブーレーズへ」P198
世界をひとつにするという示唆をグールドは持っていたのかどうなのか、やはり独奏と管弦楽の一体化を意識するその演奏に、協奏曲奏者としての彼の適性を垣間見る。
風変わりな彼は、であるがゆえに、不可能と思われる精神的・物質的「一体化」を本当は求めていたのかもしれない。
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>風変わりな彼は、であるがゆえに、不可能と思われる精神的・物質的「一体化」を本当は求めていたのかもしれない。
精神的・物質的「一体化」を目指すのは、不可逆的な自然の摂理に反し、「全体主義」と紙一重な思想ではないでしょうか。少なくとも、エントロピー増大の法則に反しているのは確かです(笑)。
私は、地球はひとつの生命体だと考えれば、ことさら精神的・物質的「一体化」を求める必要などないと思っています。
マイケル・クラークソンの新訳出版は時期尚早とのこと、出版は2~3年先になりそうです。出版社との兼ね合いがあるため、これくらいないとダメでしょうね。
>雅之様
>地球はひとつの生命体だと考えれば
ほんとおっしゃる通りなのですが、頭ではわかっていても実感としてそうならないのが歯痒いのです。