さて、来月のクラシック音楽入門講座のことをそろそろ考え始めねば。
できるだけ従来にない切り口でと思っていることと、とはいえ入門者向けなのであまり難し過ぎたり、エキセントリックになり過ぎないよう注意を払わなければいけない。
このあたりが一番順当だろうと、担当者と相談した結果、テーマはベートーヴェンということに。しかしながら、小1時間で映像を視聴いただきながらかい摘んで楽聖のことを紹介してゆくというのだから大変な試みではある。さて、いかに・・・。
まったく根拠のない、ほとんど空想に近い話なのでここに書くのも憚られるが、今朝ふと思った。ベートーヴェンというのは引っ越し魔で、ウィーンにいた30年ほどの間に70回以上住居を替えている。これはほとんど異常ともいえる行動だが、潔癖症だったということや気分の揺れが異様に激しかったということを考慮すると、隣人とのトラブルも大いにあったのだろうし、気に入らないことで簡単に激高し、前後の見境なく飛び出したりしたこともあったのだろうと想像できる。ただし、ここで僕が思うのは、そういう「癖」があったお蔭で、結果として常に旧いものを捨て(いまでいうところの「断捨離」)、新たなステージで活動してゆくというパターンが身につき、すなわちことあるごとにリセットされ、気分一新ゼロからのスタートというような状況に置かれざるを得なかったことが彼の芸術にとって最良だったのだろうと。
例えば、9つの交響曲を見ても、どれひとつとして同じ種のものはなく、常に当時の一般聴衆の「理解」を超えていたのではないか・・・。それらには必ず何かしらの「革新」があることに今更ながら驚きを隠せないが、過去に執着なく、過去をいとも容易く一蹴し、そして新たな居場所をすぐに見つけることができる「能力」が音楽的才能云々の以前にそもそもあったということだ。創造物というのは創造者の真に鏡なり。
ベートーヴェン:
・交響曲第5番ハ短調作品67(1952.3.22録音)
・交響曲第6番ヘ長調作品68「田園」(1952.2.14録音)
アルトゥーロ・トスカニーニ指揮NBC交響楽団
昔、トスカニーニの演奏ははっきり嫌いだった。残響の少ない乾いた録音のせいもあるのだろうけれど、直線的で怒られているような気がして、いつも最後まで聴き通せなかった。それと、彼の有名な、エロイカ交響曲を指して「ただの『アレグロ・コン・ブリオ』に過ぎない」という言葉も気に入らなかった。音楽というのはもっと情感のこもった、作曲者の想いの詰まった生物ではないのかという反発。それに、楽譜に忠実にと言いながらトスカニーニもばりばり改変して演奏しているではないかという抵抗。
このあたりは言葉が独り歩きして誤解を生んでいるのだと今になってようやく理解するが、それにしてもそういうエピソードが僕の「思い込み」をより一層強固なものにしていたのは確か。
ところが、トスカニーニのベートーヴェンは素晴らしいと僕はいつの頃からか思うようになった。それは・・・、オーケストラの団員になってみる、実際にカーネギーホールでNBC交響楽団のティンパニ奏者になったつもりで、その音の中に自らを投影して聴いてみると、「わかる」のである。まさに独裁者が目の前にいた。眼力や指揮棒で指示されたことに一切逆らえるはずもなく、途切れることのない緊張感を維持しながら、懸命にベートーヴェンを音化することに奉仕する。「田園」交響曲の第4楽章にあるのは「恐怖」だ。団員の感情から湧き立つ「不安」だ。そして、フィナーレになだれ込み、あのトスカニーニですら自然や宇宙への「感謝」を音に託していることがわかった瞬間、僕の心は解けた。そして、融けた。
コーダのあの高揚は、同時代のフルトヴェングラーのそれともワルターのそれとも異質だ。
フルトヴェングラーは祈る。ワルターは抱擁する。トスカニーニは・・・、人間的感情に決然と別れを告げ、自然を自然のままに描く。ただし、ここには「歌」がある。
それにしても53年録音のエロイカの凄絶感は、現代の指揮者が振るコンサートではまったく聴けなくなった、唯一無二の個性ですね
まさにトスカニーニにとって、ムラヴィンスキーにとってシューリヒトにとって
『こうあらねばならぬか?こうあらねばならぬ!』という心境
>neoros2019様
トスカニーニ、ムラヴィン、シューリヒトの「エロイカ」はいずれも唯一無二の個性だと僕も思います。
Es muss sein!!