エレーヌ・グリモーのピアノはとても繊細。
でも、どういうわけか「人間」を感じさせない。それは彼女がいわゆる「人間」じゃないから?いや、それはわからない。しかし、少なくともピアノを眼の前にして音符を奏でる時、彼女はその音符を認めた作曲家とひとつになる。普通演奏家はそういう時、その作曲家への尊敬や畏怖、あるいは愛というものを感じながら音楽を奏でるのだろうけれど、彼女の場合は何だかそういうものを超えてしまっているように思えてならない。音楽や創造者への奉仕の思いが先行するのかどうなのか・・・、とにかく「音」というものに尽くしている、そんなイメージが強い。
第1楽章冒頭のカデンツァから並々ならぬ自信と確信とが感じられる。それに何より「無心で愉しんでいる」ように思われ、聴いていて、この耳慣れた大協奏曲に「初めて触れた時」の感動が蘇るのである。第2楽章アダージョ・ウン・ポコ・モッソ、ここはエレーヌの独壇場。悟りを開いたベートーヴェンの言葉にならない人々への愛が丁寧に、そして静かに歌われる。1809年、この年はベートーヴェンにとって大事な年だ。ナポレオン軍のウィーンへの侵攻があり、多くのパトロンがこの地をしばらく離れざるを得なくなった。師であったハイドンも亡くなった。しかし、その一方で、真剣に結婚を考えたテレーゼ・マルファッティとの恋もあった。
音楽を作る契機はもちろん目の前の恋する人に宛てたものだろう。しかしながら、この頃のベートーヴェンの創造力はそんなレベルを上回ってしまっていた。結果的に「大いなるもの」への讃歌に近い、そんな作品がいくつも書かれた、そのように僕は解釈する。
フレーズのひとつひとつにただならぬ「想い」がこもる。
それに呼吸が極めて深い。僕の勝手な印象なのだけれど、この人は「過呼吸」気味、否、よくそういう状態になる人なんじゃないかと写真を見て勝手に思っていたけれど(笑)、それは大きな誤解のよう。音が零れ落ちんばかりのニュアンスを湛えながら堂々と揺るがない、大地に根を張った芯の強い音楽が常に鳴り響く。堂々たる第3楽章ロンドよ・・・。
ところで、余白に収録された作品101。こちらがまた何とも美しく、そしてどの瞬間も意味深く、思わず惹き込まれる。第1楽章コーダ直前のffもわずかに控えめ、続くコーダの何と幻想的なニュアンスよ・・・。第3楽章アダージョ・マ・ノン・トロッポの深い祈りに続き第1楽章の主題が回想されるシーンの神々しさ。そしてアレグロで爆発!ここはこのソナタのクライマックスを成す部分だと僕は思うが、エレーヌのピアノは一層絶好調。
ウラディーミル・ユロフスキという指揮者は初めて聴いた。若いのに(1972年生まれ)随分堂々と落ち着いていて巧い。
SKDの美音を最大限に引き出し、この人口に膾炙した名曲をこれほどまでに聴かせる陰の(?)立役者は意外にこの人かもしれない。ブックレットにはエレーヌと2人で様々語り合い、音楽を作り上げている写真が何枚か収められているが、それらはまったくそのことを物語る。
今日から何だか一気に「空気」が変わった。節目をまた一つ越えたよう。
グリモーはほぼ全てのCDは所持しているはずですが、やはり経年するにつれ表現が濃厚になってきていますね。実演のブラコン1.2も同様に。
ユロフスキはロンドン時代に色々聴きましたが、協奏曲向け指揮者かなぁと思います。あまり交響曲でこれといった思い出はないなぁ…
>ふみ君
そっか、ロンドン時代にいろいろ聴いてるのね。素晴らしい。
グリモーは「濃厚」というより、経年につれピュアになってってると思います。
ユロフスキは未知数。今後に期待します。
*とにかく「音」というものに尽くしている、そんなイメージが強い。
ここで再びGrimaudが取り上げられて嬉しいです。岡本さんの言いたいこととほぼ同じ感じを持ったのですが、本人も言っているように「音楽」が自分の身体を通して出て行く状態が透明なんだと思います。Grimaudは透明人間になれるのです。初めて会った狼が彼女にすっと近づいていったのも一般人間のようにやたらゴミを蓄積していないHelene姐さんの透明度を感じたからでしょう。だから
*この耳慣れた大協奏曲に「初めて触れた時」の感動が蘇る
、、、ということに自然となっていくんですね。いや〜、まだ暫くはGrimaud熱からさめそうもありません。このBlogのお陰です。本当にありがとうございます。
>Judy様
なるほど、「透明人間」ですか!確かに初めて会った狼が近づいたというのですから、彼女が狼か透明人間であるかのどちらかですね!(笑)
喜んでいただけて良かったです。
今後ともよろしくお願いします。