クナの「パルジファル」と「ジークフリート牧歌」

自然には直線は存在しない。直線は人間の拵えもの。
線形の視点は二元的で、いかにも人間の思考っぽい。それは「言語」だってそう。言葉が事象を完璧に表現できないのは、これも人類のある種「作りもの」だからだろうか。
先年より「システム思考」について少々勉強する。ここではすべてをつながりの中で捉え、いかに全体観で俯瞰できるか、そういう視点、思考を持つことが重要だといわれるが、そのためにはあらゆるものが「相互関係」で成り立っていることに気づかなければならない。そして、何もかもが「相互」で連関しているということは、結局すべてはひとつということだ。ここで考える。「つながり」ということはいわば曲線形ということ。「自然」に存在するものはすべて曲線形。

はたと思った。音楽というのも曲線形ではないのかと。いみじくもワーグナーが言語よりも音楽に優位を置いたのは、人間よりも自然や宇宙の方が上なんだといつのときか気づいたからではないのか(おそらく無意識だろうが)。例えば、彼の絶対的手法のひとつである「無限旋律」。終わることのない音。分断されることなく永遠に連なる音のつづれ織り。いや、待て。もっと言うと、自然と人々は共生し得る。音楽と言葉をいかに融合できるか。それこそが本来の「総合芸術」の目指すところではないのかとも。ワーグナーの場合も、最後の舞台神聖祭典劇「パルジファル」ではかなりその目指すべきところに近づいた。しかし、彼の場合はどうしても「自我」が邪魔をした。

「トリスタン」にしようか、「タンホイザー」にしようか、あるいは「ローエングリーン」か・・・、いろいろ考えた挙句、楽劇を通して聴くのを止めた。せめてどこか一幕でもとも思ったが、今日のところは「言葉」のない「音楽」のみに身を浸そうと。

ワーグナー:
・舞台神聖祭典劇「パルジファル」第1幕前奏曲
・舞台神聖祭典劇「パルジファル」第1幕場面転換の音楽
・歌劇「リエンツィ」序曲(以上、1950.6&9録音)
・ジークフリート牧歌(1955.4録音)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
R.シュトラウス:
・交響詩「ドン・ファン」作品20(1956.5録音)
ハンス・クナッパーツブッシュ指揮パリ音楽院管弦楽団

クナッパーツブッシュがバイロイト音楽祭に登場する前年にウィーン・フィルと録音した「パルジファル」抜粋。この呼吸の深い音楽はクナッパーツブッシュの真骨頂であり、どの録音を聴いてもその悠久の調べに畏敬の念を覚えずにはいられない。いつまでもそこに身を浸していたいという想い・・・。願わくば「聖金曜日の音楽」が録音されていればと残念でならない(後年のウェストミンスターへの再録盤にも「聖金曜日」は未収録)。
それと、理想的なテンポの「ジークフリート牧歌」。ステレオ再録盤は少々テンポが遅過ぎ、もたれる感を否めなく、クナッパーツブッシュの「ジークフリート牧歌」を聴きたいときは僕はこの音盤を必ず取り出す。いかにもウィーン風の木管の音色と弦の昔風の不安定な(?)響きが堪らない。1870年のクリスマス、寝室でこの調べをはじめて聴いたコージマの感動を髣髴とさせる温かさ。
「いつまでも続け」と思わず呟きたくなる。しばらくずっとこの流れに身を委ねていたいと思わせられる音の洪水。音楽だけの「パルジファル」は何て素敵なのだろう。

ところで、パリ音楽院管を振ったシュトラウス。正直、クナッパーツブッシュの表現にはそぐわない。妙に明るい印象で、シュトラウスの重厚な音楽にも合わず。
以上、今宵のすべての記述は独断と偏見なり。

 


人気ブログランキングに参加しています。クリックのご協力よろしくお願いします。
にほんブログ村 クラシックブログ クラシック音楽鑑賞へ
にほんブログ村


コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください

アレグロ・コン・ブリオをもっと見る

今すぐ購読し、続きを読んで、すべてのアーカイブにアクセスしましょう。

続きを読む