プレヴィン&ウィーン・フィルのR.シュトラウス「家庭交響曲」ほかを聴いて思ふ

r_strauss_symphonia_domestica_previn_vpo017若きリヒャルト・シュトラウスもまた、才能ある指揮者および作曲家として、クララが耳にする機会のあった音楽家である。彼の「才能と技能、達者な腕前と安定感に驚いた」。
モニカ・シュテークマン著/玉川裕子訳「クララ・シューマン」(春秋社)P209

才能と才能が交差する19世紀末の光景を想像するだけで面白い。
シュトラウスの「家庭交響曲」。第3部アダージョは夫婦の愛を描くが、ロマン・ロランは「悪趣味」と決めつけ、パリ公演の際には標題の削除を進言したらしい。それに対して作曲家は次のように応酬したという。

なぜ自分を題材に交響曲を作ってはいけないのか、私には理解できません。私にとって私自身は、ナポレオンやアレクサンダー大王と同じくらい興味深い素材なのです。
岡田暁生著「作曲家◎人と作品シリーズ リヒャルト・シュトラウス」(音楽之友社)P110

素晴らしい音楽作品を前に、これを自信過剰とするか否かはどちらでも良い。ロランですら音楽そのものについては絶賛しているのだから。おそらく時代背景にあった倫理観や常識が批評家にさえも月並みで厳格な判断を要求したということだろう。今となっては標題があるからこそ作品の一層の理解につながるという向きもあり、ましてや芸術家たるもの自意識過剰ぐらいでないと傑作など生み出せないものだ。

「マーラーとシュトラウス―ある世紀末の対話 往復書簡集1888-1911」から「家庭交響曲」初演の頃のものをひもといた。

たったいま旅行から帰ってきたところだ。きみと協会幹部(創造的音楽家協会)の親切な速達便にたいして心から感謝する次第。また特別に、きみが準備してくれたこの作品(家庭交響曲)の素晴らしい上演に対して深く感謝する。一時的に興奮する「ウィーン人の熱狂ぶり」には、このような仕事も骨折り損というところだが、でもきみが演ってくれたことは、ぼく自身忘れてしまうことはないだろう。
1904年11月27日付シュトラウスからマーラー宛手紙
P128

少なくともウィーンの聴衆からは好意的に受け容れられたことを示す。ロランが標題について何を述べたにせよ、第3部アダージョの静かなる清純さを伴った官能性はかのワーグナーですら後塵を拝する。
その上で、シュトラウスがマーラーの第5交響曲について言及した手紙を見ると面白い。

きみの「第5シンフォニー」は、最近の総合練習で、小さなアダジェットだけには、いくぶん暗い気持ちになったが、またもやぼくに大いなる喜びを与えてくれた。この作品が聴衆に一番喜ばれたということは、きみにしても、まったく当然のことなのだ。
最初の2楽章は、とくに堂々たるものだ。でも、独創的なスケルツォは、いくぶん長いといった感じ。それは、多分に、立派とはいえない演奏のせいだろうが、ぼく自身の判断するところではない。きみの作品は、総合練習でまったく素晴らしい立派な成功を収めた。これに反して、晩の聴衆は、ぼくが報告を受けたところでは、いくぶん理解のにぶい態度をとったとか。そんなことは、ぼくにとっても、きみにとっても、なにも目新しいことではないだろう。
1905年3月5日付、シュトラウスからマーラー宛手紙
P132

否定などものともしない孤高のスタンスと音楽家としての圧倒的自信が感じられる言葉だ。しかも、他人の作品に対する評価も的を射る。シュトラウスの音楽に対する審美眼は間違いないようだ。

リヒャルト・シュトラウス:
・家庭交響曲作品53
・ピアノ(左手)とオーケストラのための家庭交響曲余禄作品73
ゲーリー・グラフマン(ピアノ)
アンドレ・プレヴィン指揮ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団(1995.11録音)

ウィーン・フィルの柔らかい音色と、各独奏楽器のまろやかな響きに「家庭交響曲」が本来の姿を取り戻す。標題はあくまで着想のきっかけに過ぎない。もはやこの音楽は十分に「純音楽」であり、どの瞬間を切り取っても有機的で、終結の大団円に至る音楽の設計は職人シュトラウスの真骨頂。まさにクララ・シューマンの評する「才能と技能、達者な腕前と安定感」という言葉がぴったり!!
さすがにプレヴィンは作曲家だけあり、音楽の細部まで実に丁寧に磨き上げ、表現する。クライマックスは「子守唄」からアダージョ、そしてフィナーレにかけての30分ほど。

ちなみに、パウル・ヴィトゲンシュタインからの委嘱による「家庭交響曲余禄」がまた名演奏。
子どもと病魔との葛藤が描かれ、最後は安寧と幸福を呼ぶ楽想にほとんどポピュラー・ムード音楽的なニュアンスも漂うが、あくまで「癒し」を前提としたと捉えるなら納得のゆくところだろう。
この作品も「標題的なもの」は着想のきっかけになったに過ぎない。シュトラウスの場合、一旦音楽が完成するとそれは「標題」を超え独り歩き、純音楽化するようだ。

 

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