シューリヒト&パリ・オペラ座管のモーツァルトを聴く

mozart_40-41_schuricht_parisコンヴィクト(寄宿制神学校)時代のフランツ・シューベルト。

少年オーケストラのメンバーは、当時人気のあったクロンマー(1759-1831)やコジェルフ(1747-1818)の交響曲の演奏を好んだらしい。しかしシューベルト自身は、ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェンの交響曲の方がずっと好きで、「フィガロの結婚」や「魔笛」の序曲に夢中になっていた。モーツァルトの交響曲第40番については、「とても心を揺さぶられるのだけれど、どうしてかわからない」と首をかしげている。またモーツァルトのピアノ・ソナタも練習していたが、「この曲はとても好きだけれど、うまく弾くのはむずかしい」とこぼした。
喜多尾道冬著「シューベルト」P31

天才というのはやはり子どもの頃から天才であり、時代を先取りする。何と鋭い感性・・・。当時、ベートーヴェンは存命、ハイドンが亡くなった直後、20年前に逝ったモーツァルトも含め、彼らはおそらくまだまだ一般大衆には理解しがたい前衛的な範疇にある音楽家たちだったのだろうと思われる。

確かにモーツァルトのト短調シンフォニーは心を揺さぶられる。耳にタコができるほど聴いているにもかかわらず、今になってあらためてまた思う。そしてまた、シューベルトの言うようにそれがどうしてだかはわからない。

「モーツァルトの手紙」を斜め読みして思うこと。
モーツァルトの天才は、その幼少時の手紙の類をひもとくだけで十分に理解できるものだ。語学の扱いも尋常でなく、内容もあまりに創造的(エキセントリック)でありながら、実に奥深く哲学的な様相を示す。例えば、ナポリにおいての1770年5月19日付姉ナンネル宛手紙には次のようにある。

それから、元気に生きて、死なないように、そうすれば、あなたはもう一通手紙を書けるし、そのあとぼくもまたあなたに一通書ける。そうやって、ぼくらがくたばるまで、ずっと続けられるでしょう。でもぼくは、最後にやるべきことがつきるまで、やりとげようとする人間です。
高橋英郎著「モーツァルトの手紙」P84

何と14歳の少年が書いたものである。いかにも故郷にいる姉を励ましながら実に自らに生きよと語りかける。果たして彼はやるべきことをやりきって逝ったのか?そのことは本人にしかわからないことだが、モーツァルトの先見を考えるなら、これは一種の予言のようなものであるとも考えられる。未完で終わった「レクイエム」はともかく、彼は「やりとげ」、35年という短い時間を駆け抜けていった。

モーツァルト:
・交響曲第38番ニ長調K.504「プラハ」(1963.6録音)
・交響曲第40番ト短調K.550(1964.6録音)
・交響曲第41番ハ長調K.551「ジュピター」(1963.6録音)
カール・シューリヒト指揮パリ・オペラ座管弦楽団

名演だ。ふと感じた。シューリヒトはモーツァルトの明暗の同居を強調する。それはまるでシューベルトを奏するかのよう。1822年、25歳のシューベルトが書いた「わたしの夢」と題する散文の有名な箇所を思い出す。モーツァルトとシューベルトがシューリヒトを介して「ひとつ」になる。

わたしが愛をうたおうとすると、それは悲しみになった。そこで悲しみをうたおうとすると、それは愛になった。
喜多尾道冬著「シューベルト」P40

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、222回目の命日に。

 


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