シュナイダーハン独奏フルトヴェングラー&ベルリン・フィルのベートーヴェンほかを聴いて思ふ

beethoven_violinkonzert_schneiderhan_furtwangler_bpo063ベートーヴェンに対するイメージは、一般的に険しく厳しいというものだ。それらは、古今の識者が残したベートーヴェンに関する様々な見解、考察から与えられたものだろうが、少なくとも音楽を聴いていて、最終的にすべてが解放され、ひとつになりゆく様を見事に音化したという点で彼以上の人はおらず、その意味では闘争や分離よりむしろ平和や調和というものを心から望んでいた人間だったと僕は信ずる。

谷川俊太郎さんの「ベートーベン」という詩。

ちびだつた
金はなかつた
かつこわるかつた
つんぼになつた
女にふられた
かつこわるかつた
遺書を書いた
死ななかつた
かつこわるかつた
さんざんだつた
ひどいもんだつた
なんともかつこわるい運命だつた

かつこよすぎるカラヤン
~「谷川俊太郎詩集」(角川文庫)

素敵な詩だ。谷川さんはあえて無様に貶めることでベートーヴェンを賞賛した。それくらいにこの人は人間的なのだからその創造物が人の心を捉えるのである。ロマン・ロランは書く。

不幸な貧しい病身な孤独な一人の人間、まるで脳みそのもののような人間、
世の中から歓喜を拒まれた其の人間がみずから歓喜を造り出す―
それを世界に贈りものとするために。
彼は自分の不幸を用いて歓喜を鍛へ出す。
ロマン・ロラン著/片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」(岩波文庫)P68

不幸を知らない人が、幸福がわからないのと同様。
苦しい時も、辛い時も、そこでのすべての経験があればこそ人々を共感へと導けるというもの。つんぼになろうが、女にふられようが、世間から歓喜を拒まれようが本人は意にも介さなかった。すべてが必然であるとわかったがゆえに、彼は死を思い止まり、以降「傑作の森」と呼ばれる崇高な作品群を立て続けに書くことができたのだ。

1806年の今日(12月23日)、アン・デア・ウィーン劇場にて初演されたニ長調協奏曲。気高く聳え立つ楽聖唯一のヴァイオリン協奏曲は、どちらかというと女性的で優美な作品という印象にあるが、ここにこそロランの言う「歓喜を拒まれた人間が生み出した歓喜」があり、そのことを実証した演奏のひとつが、シャナイダーハンを独奏に迎えたフルトヴェングラーの1953年の実況録音だと僕は思うのである。これほどに雄渾で束の間の悲しみに溢れ、しかし、それも最後には解放され、幸福感に覆われる演奏というのはなかなかない。

ベートーヴェン:
・ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品61(1953.5.18Live)
・レオノーレ序曲第2番作品72(1949.10.18Live)
ウェーバー:
・歌劇「オイリアンテ」序曲(1954.5.4Live)
ヴォルフガング・シュナイダーハン(ヴァイオリン)
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

フルトヴェングラーの音はどの瞬間も重厚で意味深く、一方のシュナイダーハンの独奏はどんな時も繊細で軽快明朗。ヨアヒム作のカデンツァなどアンバランスなほどに喜びに満ちる。続く第2楽章ラルゲットの静謐さはおそらくフルトヴェングラーから発せられるものだろうが、対比的な終楽章ロンド・アレグロの愉悦はことによるとシュナイダーハンが牽引しているものなのかもなどと考えた。素晴らしい演奏だ。

「レオノーレ」序曲第2番における疾風怒濤の壮絶さは冒頭の強烈な和音からいつものフルトヴェングラー節。コーダの追い込みの激しさと、最後にブレーキをかけつつ堂々たる終結を迎える表現は、いかにも1940年代のこの人ならではだ。
そして、ウェーバーの「オイリアンテ」序曲の、流麗な流れの内に垣間見られる悪魔的表現もフルトヴェングラーの真骨頂。

ベートーヴェンを言葉で語り尽くそうなどというのは無理な話なのだ。その意味で僕のこのブログ記事も空回り極まりなく、実に空しい。フルトヴェングラーの言うとおりだ。

ベートーヴェンを真の意味で体験した最初の人、しかも久しくその意味で唯一の存在であった人が―この体験を公表した人々のなかでは―リヒャルト・ヴァーグナーである。・・・たとえばキリスト教徒が信仰についてほとんど語りえないのと同様に、畢竟ベートーヴェンの真の理解者はベートーヴェンについて充分に「語る」ことができない。このことを、ヴァーグナー自身がだれよりも知っていた。「ただちに恍惚の音に引きこまれることなしにベートーヴェンの音楽の真髄を語ろうなどとは、およそ不可能なことである。」
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー著/芦津丈夫訳「ベートーヴェンの音楽について」

 

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2 COMMENTS

畑山千恵子

谷川さんの詩には、カラヤンの演奏があまりにも完璧すぎたことへの批判がこめられていますね。といっても、カラヤンのベートーヴェン演奏も冷静に再評価すべき時期が来ているようにも思いますね。

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