ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ氏が亡くなって早1年と少しが経過する。
このところ、彼が著した「ワーグナーとニーチェ」を読み、気づくこと数多。
例えば、ワーグナーとニーチェの関係、すなわち、ある時期からニーチェがワーグナーに心酔するものの10数年後に袂を分かった話は有名だけれど、実は極めて個人的な性格による誤解からそういう結果に至ったこと。
ワーグナーは自分自身、あるいは自身の芸術以外には無関心、相当いい加減な男である。ニーチェからの熱烈な手紙類も多くは残っていなく、おそらく平気で簡単に破棄するほど無頓着。一方のニーチェはかなりの完全主義者。もちろんワーグナーからもらった手紙類は捨てられるはずがない。一概には言えないが、そんな性質、癖の違いが最終的に仲違いした要因になったのだろうことは容易に想像できる。
とはいえ、小さなことに拘らないワーグナーの性格、習慣が、広く普く次世代にまで残る芸術を生み出したことは否定できまい。そう、捨てられない人は新しいものを生み出せない。「革新性」の裏には必ず物事に拘らない「潔さ」がある。
そんなワーグナーが影響を受けた先達はベートーヴェンその人。第9交響曲の理念を深掘りし、追究することがワーグナー芸術の真髄だと思うが、2人の音楽家の性格というのは意外にそっくりかも。
今宵はフィッシャー=ディースカウによるベートーヴェンの歌曲集を聴いた。あえてアナログ盤で。
ベートーヴェン:歌曲集
・歌曲集「遥かなる恋人に寄す」作品98(ヤイテレス詩)
・愛されぬ者の吐息とこたえあう愛WoO.118(ビュルガー詩)
・「愛」作品52-6(レッシング詩)
・アデライーデ作品46(マティソン詩)
・憩いの歌作品52-3(ユルツェン詩)
・やさしい愛WoO.123(ヘルロゼー詩)
・恋する人が離れ去ろうとしたときWoO.132(ブロイニング詩)
・遥かよりの歌WoO.137(ライスィッヒ詩)
・異郷の若者WoO.138(ライスィッヒ詩)
・あこがれWoO.146(ライスィッヒ詩)
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
ハルトムート・ヘル(ピアノ)
EMIの3枚組ボックスから1枚目を繰り返し。ディースカウの理知的な声質がベートーヴェンの音楽を一層「高いもの」にする。
「良き歌は我が導き手だった。私はできるだけ淀みなく作曲するように心がけたし、健全な理性の法廷、清らかな趣味の法廷に立っても、心に恥じるところがない」
(ベートーヴェン自身によるルドルフ大公のための音楽教本草案)
付属の重厚な解説書が意義深い。中で、カール・シューマンが1984年に書いたエッセー(高橋義人訳)。
・歌曲作曲家としてのベートーヴェンは抒情詩人だった。
・円熟期の歌曲の作曲において、ベートーヴェンは交響曲や弦楽四重奏曲の場合に劣らず緻密かつ細心である。
・ベートーヴェンの歌曲は概ね自己告白である。歌曲において彼はきわめて主観的に振る舞っている。彼は神と世界について、信仰、希望、あきらめ、恋についても語る。
・1816年、つまり作品101と106というピアノ・ソナタの大曲が生れた時期に、リーダークライス「遥かなる恋人に寄す」が作られた。シューベルトの連作歌曲集が短編小説の諸場面を示しているとすれば、ここに描かれているのは、ただ一つの根本感情、つまり「あこがれ」である。
ぼくは丘の上に坐っている、
青く霧にかすむ景色に見入りながら、
恋人よ、はじめてあなたに出逢った
あの遠い牧場の方を眺めながら。
ぼくは遠くあなたから離れている、
ぼくたちの間を、ぼくたちの平和を、
ぼくたちのしあわせを、ぼくたちの苦悩を
山と谷がひき離している。
ああ、もえ立ってあなたにそそがれる
この視線をあなたは見ることができない、
ぼくの溜息は、ぼくたちをへだてている
空間の中にむなしく消えてしまう。
なにひとつ、あなたにとどこうとはせず、
なにひとつ、愛を伝えようとはしないのか?
(訳:西野茂雄)
ベートーヴェンとワーグナーはある意味双生児だ。どちらも激昂型で自意識過剰。しかし、こと芸術となると類稀な創造力を発揮する。2人に共通するその秘密は、他の者に対して無頓着、拘りがないということだ。そして彼らは「憧れ」が強い。嫌な奴らだけれど、天才・・・。
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