
神々の時代は終わった。
今や、人間であるイフィジェニーとオレストは、自力で生き延びねばならないのだ。
「オーリード」ではアガメムノンは真の犯罪者は神々であることを認識していた。しかし、彼は神々から逃れる術を持たず、結局、神々から彼が戦争を起こす口実にされたのだ。
一方、「トーリード」の終盤では、アトレウス家の呪いは解けたように見える。神の掟はもはや不要になったからだ。
「イフィジェニー」という神話的主題は、人間の相互理解とふれあいこそが諍いや争いをなくす方法だと明確に示している。かつてオレステにクリュタイムネストラ殺害を命じた神は、今やヘレーネに天界での居場所を与え(ヘレーネもオレストに殺害を命じた)、次のように言う以外に解決策はなかった。
「見よ、彼女はまだ我々の中にいる」
(クラウス・ベルティシュ)
「オーリード」から「トーリード」の時間的経過は5年ほどだ。わずか5年で、世界がこうも変わるとは!(諸行無常!!)
エウリピデスの戯曲の、ニコラ=フランソワ・ギヤール(1752-1814)による翻案。
クリュタイムネストラとアガメムノンの長女イフィジェニーは、「オーリードのイフィジェニー」でも、「トーリードのイフィジェニー」でも故郷と呼べる場所を喪失している。彼女は父アガメムノンによってオーリードに送られた。激怒した女神ディアーヌをなだめ、ギリシア艦体がトロイア人との戦争に出航できるようにするため、彼女が生贄に捧げられることになったのだ。
しかしながら、女神は彼女に同情し、このような若き女性が死ぬべきではないと判断し、彼女を女神自らトーリードに送った。ところが、イフィジェニーは、愛するアシルとの新生活の代わりにディアーヌによって免れた刑罰、すなわち女神への生贄として大衆を虐殺するという刑罰をトーリードで執行せざるを得なくなる。生きることを許されないのなら、失うことのなかった命も何の役に立つというのだろうか。
アシルはトロイア戦争で命を落とす運命にあった。まさにその戦争において、アガメムノン率いるギリシア軍はオーリードから出撃することができなかった。イフィジェニーを犠牲にして怒りの女神を鎮めなければ、出撃も叶わなかったのである。
トロイアに向けて出撃する前から総司令官アガメムノンは途方に暮れていた。彼は大自然の力に希望を託す(軍事行動を神々に頼る)無力な(?)リーダーだったのだ。
各々の思惑が複雑に絡む、現代でもしばしば見受けられる人間模様。
しかし、人として無力であったがゆえの天人合一の意志がアガメムノンにあったのではないか。
ちなみに、グルックは「オーリードのイフィジェニー」をハッピーエンドで締めくくっている。イフィジェニーはトーリードに連れ去られることなく、代わりに動物が犠牲にされる。女神ディアーヌは彼女を愛する人の許へ導き、喜びに満ちた結婚式を挙げる。
(この脚色によって、当時、革新者グルックは批判の的に晒されたらしい)
15年後、トーリードで、成人したイフィジェニーは何年も前に父アガメムノンが陥ったのと同じジレンマに陥る。女神に救われたこの命で祖国ギリシアの人々を殺すべきなのか。彼女の心の奥底にある、おそらく魂(真我!)が犠牲を先延ばしにするよう仕向ける。そしてついに彼女は、ギリシアの人々が同胞であり、家族の一員であり、兄弟なのだと悟る。今こそ殺戮を止めなければならないと。
「魂のうちにギリシアの地を求める」とは、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ版「トーリード」のエピソードにおけるイフィジェニーの最初の独白で、彼女が切望する言葉だ。
表向きは結婚を勧められたものの、実際には生贄の祭壇に捧げられることになっていた、アルゴスから誘惑されたホームレスの女性。彼女は今、魂の舵取りを試みているが、その方向が正確にはわからない。父アガメムノンの過去の苦境を理解することで、彼女は父との内なるつながりを深め、結果、トーリードで出会った男、生贄を要求する蛮族の王トアスが、彼女の父親代わりとなる。しかし同時に、トアスは、生贄の命令を遂行するという原理主義的な姿勢において「オーリードのイフィジェニー」に登場するカルカースと対比される。
カルカースは保守的で戦闘的な姿勢を体現する大司祭であり、アガメムノンにイフィジェニーの生贄を執行するよう圧力をかけようとする。イフィジェニーはカルカースがやろうとしていることを予見する。彼にとって重要なことは古き良き掟だけであり、それ以外の決定を下せるのは女神だけだ。彼には感情の入り込む余地がない。
この頑固さは、2つのオペラにおいて、それぞれ興味深いことに、男の深い友情との対照をなしている。二人の男は、現代の言葉で表現するなら、社会政治的な状況に逆らいながらも互いの愛情の深さを疑う余地なく表現している。
(クラウス・ベルティシュ)
弥勒の時代といわれる今こそ、人類に降されている慈悲と智慧、そして勇気の三位一体こそイフィジェニーに欠落していた点だ(それは致し方のないこと)。

「オーリード」に続き、10年を経て「トーリード」を繰り返し鑑賞した。
グルックの音調はまるで異なる(ギリシャ神話を借りながら彼は人間存在と大自然との調和を図らんとしていたのかどうなのか)。
音楽的には第2幕でオレストが母親殺しを糾弾され、罪の意識に喘ぐシーンに心が動く(こういう激しくも劇的な音楽表現こそバロック様式を脱却せんとしたグルックの真骨頂だ)。
静かな音調の中でストーリーが黙々と展開していく。
ピエール・オーディの演出はシンプルでありながら力強い。
ミンコフスキの指揮は推進力に富み、細部も極めて精緻に磨かれており、美しい。
出色はやはりミレイユ・ドランシュ扮するイフィジェニーだろう。
ミンコフスキは語る。
ミレイユ・ドランシュにいたっては、もはや兄妹のような関係で、長い道のりをともに歩んできた。初めて彼女を聞いたのは、ナンシーのロレーヌ歌劇場で『カルメル会修道女の対話』に出演していたときだったが、芯の強い、エレガントな、典型的なフランスの悲劇女優だと直感した。モンテヴェルディからオッフェンバックまで、一緒に作り上げた舞台は数知れず、『プラテー』で彼女が歌った「狂気(La Folie)」ははまり役で、強烈な印象を残した。圧倒的な説得力で迫ってくる独特の声で、グルックの歌い方のひとつの手本を示したといっても過言ではない。グルックの『アルミード』や『イフィジェニー』などは、もはや彼女以外の声でイメージできなくなっているほどだ。
~マルク・ミンコフスキ著/アントワーヌ・ブレ編/岡本和子訳/森浩一日本版監修「マルク・ミンコフスキ ある指揮者の告解」(春秋社)P90
