ガウヴェルキのジョン・ケージ「チェロのための作品集」(2002.12録音)を聴いて思ふ

cage_solo_for_cello_gauwerky641世界には音楽(音)が溢れている。
様々な音楽(音)を選ばず聴くが良い。
美しきミクロ・コスモス。あるときはチェロの繊細な音が、またあるときはチェロの重厚な音が響く。たった一台のチェロが奏でる原始世界の崇高さ。

しかしながら、いかに音楽好きといえども、その音たちが時に邪魔になることもある。人間は完全な静寂を持たないけれど、意図した沈黙は必要なのだと思う。
作品を「実験的」呼ばわりされることについてのジョン・ケージの言葉。

だがそれは(=作曲家たちが「実験的」という言葉で自分たちの作品が言い表されることに対して、異議を唱えることは)、今日セリー音楽が示しているように、人の注意が集中する境界や構造、表現にもとづいてものをつくることが、相変わらず問題とされる場合にかぎられる。ところが一方、環境的なものを含めて、一度に多くのものを観察し、聴くことに注意が向けられる―つまり排他的ではなく包括的である―ところでは、理解しうる構造をつくるという意味で、ものをつくることはもはや問題とならない(人はここでは観光客である)。そしてここにおいて、「実験的」という言葉がふさわしいものとなる。(中略)
私がこういうことを言うのは、人間が置かれている状況があきらかに客観的(音―沈黙)ではなく、むしろ主観的(音のみ)であり、意図されたものとその他の意図されないもの(いわゆる沈黙)とがあるからだ。
ジョン・ケージ/柿沼敏江訳「サイレンス」(水声社)P33-34

より包括的なところでないと「実験的」とはいえぬものが、あまりに主観的な状況において称されることへの反論である。禅を志向したジョン・ケージは客観というものを重視した。すべてはあるべくしてあるのだ。

ケージ:チェロのための作品集
・ソロ・フォー・「チェロ」(1958)
・一人の弦楽器奏者のための59秒1/2(1953)
・アトラス・エクリプティカリス(2つのチェロのための)(1961)
・ヴァリエーションズⅠ(1958)(ガウヴェルキ編によるチェロ独奏版)
・北のエチュード(1978)~チェロ独奏のための
フリードリヒ・ガウヴェルキ(チェロ)(2002.12録音)

鬼才ガウヴェルキの奏でるチェロは生きている。
ソロ・フォー・「チェロ」における、ジョン・ケージの決して意図的でない(だろう)沈黙を聴くと、彼は内なる音楽によって世界の客観化を企んだのかと思われる。一瞬たりとも弛緩がない。強烈だ。
あるいは、27分近くに及ぶ、多重録音による「2つのチェロのためのアトラス・エクリプティカリス」のその場に留まり続けようとする、一向に音が前進せぬ強力な波動。音は弾け、うねり、地鳴りの如く微かにうなる。
ある意味単調な音楽は退屈にも思える。
しかし、ケージは次のように言うのだ。

禅ではこう言われている。もし2分たって退屈なら、4分試してみよ。それでもなお退屈なら、8分、16分、32分などという具体に試してみよ。いつかは、退屈なわけではまったくなく、ひじょうに面白いということが分る。
~同上書P163-164

的を射たり!
やってみるのだ。トライし続けてみるのだ。

ちなみに、ライナーノーツでは「ガウヴェルキの神がかり的な弓さばきによって織り成される音世界は、人間の内奥の叫びのようです」と謳われるが、ここには言葉通り深層の魂の囁きと叫びがある。何より「北のエチュード」の高鳴る不穏な響き!

 

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