カラヤンの「トリスタンとイゾルデ」を聴いて思ふ

梅雨が明けていきなりの猛暑。
うだるような戸外から隔離され、屋内で一人静かにワーグナーのとろけるような情愛の音楽に浸る。ここはバックグラウンド・ミュージックとしても十分通用する演奏を選ぶしかない。メロドラマのような展開を全面に押し出したもの。徹底した弱音と強奏のときのあまりに無機的な響き(うるさい金管群の咆哮!)が暑さに堪りかねた僕たちの心を捉える。

カラヤンの「トリスタンとイゾルデ」はどこか愉快で、時にコメディに触れているような錯覚に陥らせる。第3幕の深遠で深刻な前奏曲ですら「響き」が軽いのだ。それはベルリン・フィルハーモニーの力によるものなのか、それともそもそもカラヤンの音楽作りから出たものなのか、あるいは当時のカラヤンの「心情」が如実に反映されているのか、そこはわからない。とにかくリズムが弾み、旋律が滑らかに歌われ、無限旋律が見事に無限となって・・・。しかも消えては現れ、現れては消え、という登場人物の「心」の揺れ動く様が見事に音化されており、やっぱりオペラを振らせればカラヤンの右に出る者はそうはいないと思わせる。

音楽に答などない。創造者の感性と再現者の感性が掛け合わされて出てくるものが良いとか悪いとか僕たちに判断などできない。ただ、この録音を聴いて再確認するのはワーグナーもカラヤンもある部分では(というより全面的に?)とてもエゴイスティックな人だったのだろうということだ。

ワーグナー:楽劇「トリスタンとイゾルデ」
ジョン・ヴィッカーズ(トリスタン)
ヘルガ・デルネシュ(イゾルデ)
クリスタ・ルートヴィヒ(ブランゲーネ)
カール・リッダーブッシュ(マルケ王)
ヴァルター・ベリー(クルヴェナール)
ベルント・ヴァイクル(メロート)
ペーター・シュライヤー(牧童、若い水夫)ほか
ベルリン・ドイツ・オペラ合唱団
ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1971.12&1972.1録音)

「トリスタン」というのも類稀な音楽だ。いや、ワーグナーの作品のほとんどにはとても人間業とは思えない「真理」が必ず含まれる。あれほど独善的で自己中心的な人間からどうしてこういう音楽が生まれたのか?
そうか、ひらめいた。
音楽家の人格と彼の創造物との間には一切何の関係もないということだ。例えば、僕たちが空想する時ですら本人は意識せず、そこには何らかのインスピレーションがあることを考えてみよう。特にワーグナーのように「選ばれし人たち」は間違いなく書かされているのだ。厳密にはそこに本人の「意思」はない。
例えば、最晩年に行き着いた「再生論」が中心の著作「宗教と芸術」においてワーグナーは次のように述べる。

「(肉食という)自然に反した栄養摂取をした結果、人間は人間にしか見られない病気で衰え、天寿を全うすることもなければ、穏やかな死を迎えることもなく、むしろ人間独自の心身の病や苦難に苦しみながら、虚しい人生を送り、絶えず死の脅威におびえながら悶々とした日々を送るのである」

そして、(当時穀物菜食中心の生活を送っていた)日本人についても、

「極めて鋭敏な頭脳を持ちながら、最高度に勇猛果敢である」と。

そう書きながら、本人はつきあいやら何やら事情があるのか、あるいは社会的背景もあるのか、はたまた本人の「意思の弱さ」もあるのか、厳密な菜食はできていなかったらしい。やっぱり本人の意思とインスピレーションは別物なのだ(ワーグナーの気持ちはよくわかる・・・笑)。

閑話休題。カラヤンの「トリスタン」。夜中に音量を絞って聴くのには不向きだ。弱音がまったく聴こえなくなるから(笑)。ただし、演奏そのものはベルリン・フィルの機能性を最大限生かし、歌手をも上手にコントロールし、自分色に染めた名演奏。何より疲れない。

※太字ワーグナーの言葉はこちらのサイトより拝借しました。

 


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