リヒテル ベートーヴェン ソナタ第23番「熱情」ほか(1992.11Live)を聴いて思ふ

長い隠遁からの復帰直後のイーヴォ・ポゴレリッチのリサイタルは、客電をほぼ0にしての、ピアニストだけを舞台上に浮かび上がらせる、極端に暗い演出だったように記憶する。同様に、晩年のスヴャトスラフ・リヒテルのリサイタルも、(映像でしか確認したことがないが)ほとんど能舞台かと思わせる、神韻縹緲たる雰囲気の、真っ暗闇の中での演奏だった。

人間の思い違いには美化されたものも、悪意から生まれたものもありますが、私が暗がりで弾くのは、自分自身のためなどでは断じてなく、聴衆のためなのです。
われわれの好奇心というのは音楽にとって有害です。
指の激しい動きや顔の表情は音楽そのものではなく、運動であって、音楽をつかむ助けにはなりません。室内や聴衆に目を向ければ、聴衆は音楽に精神を集中できなくなります。そのことが音楽家のイマジネーションを損ない、音楽と演奏家の間に入り込んでいきます。音楽は純粋に音楽そのものを聴くのが望ましいのです。
暗くすることによって聴衆が音楽に集中でき、眠気をもよおさないことを心から願っています。

(1990年1月31日ラ・ロック・ダンテロンでの演奏会プログラムより 田中裕子訳)
「ザ・ピアノ&ピアニスト」(読売新聞社)P148

彼のこの考えもある種思い込みであると捉えることも可能だが、すべてはあくまで聴衆の音楽理解の助けになるためだと信じての行為だったことを知るにつけ、リヒテルの生み出す音楽が俄然愛おしくなる。

1992年11月の、アムステルダム・コンセルトヘボウでのリサイタルの記録。
オール・ベートーヴェン・プログラムは、集中力と開放感溢れる、脱力の極致。

ベートーヴェン:
・ピアノ・ソナタ第19番ト短調作品49-1
・ピアノ・ソナタ第20番ト長調作品49-2
・ピアノ・ソナタ第22番ヘ長調作品54
・ピアノ・ソナタ第23番ヘ短調作品57「熱情」
スヴャトスラフ・リヒテル(ピアノ)(1992.11Live)

ベートーヴェン初期の2つのソナタが、また、ロベルト・シューマンが好んだ中期の作品54が、何て音楽的に響くのだろう。ことに、ソナタヘ長調作品54第2楽章アレグレットの、水の如くの自由さ、流麗さ、スピード感!
しかし、白眉は「熱情」ソナタの、じっくりと歩を進め、聴く者の内面を抉るほどの動性。第1楽章アレグロ・アッサイが揺れ、感動を喚起する。目から鱗が落ちるほど音楽的!そして、第2楽章アンダンテ・コン・モートの優美な音色から、アタッカで続く怒涛の終楽章アレグロ・マ・ノン・トロッポの熱狂!軸は一切ぶれず、ベートーヴェンの魂を正確に音化するリヒテルの魔法。各曲終演後の拍手喝采の歓喜よ。

コンサートのときスコアを見て弾くことの重要性を以前から話してきましたが、私の場合実行に移すのが遅すぎました。
演奏曲目が今よりも限られていて、あまり複雑でなかった時代にあってもスコアを見ながら弾くのが通例でしたが、この懸命な習慣を破ったのがリストでありました。
今日では、音楽にあわせるためというよりも、暗譜することに無駄な労力を使い疲れてしまいます。
なんと他愛ない徒労であることでしょうか。暗譜のコンクールであり、記憶力を誇示しているようなものです。要は聴く人の心に触れるような演奏をすればよいのです。無意味な因習によって思い違いをしてはいけません。これは、私の尊敬する師ハインリッヒ・ノイハウス教授の指摘する点でもあります。

(1990年1月29日エクス・アン・プロヴァンスでの演奏会プログラムより 田中裕子訳)
~同上書P148

スコアを見ながらでないがゆえの「自由さ」を獲得した奔放なベートーヴェン。
最高のひと時だ。

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