フルトヴェングラーのブラームス

真夏の森の鳥や虫たちの、あの独特のざわめきと不思議な涼しさを伴う「音」が僕は好き。子どもの頃に感じた郷愁感や、あとその頃の懐かしさが思わず込み上げる。鮮やかな深い緑にもかかわらず、眼前に広がる色は過去の記憶と相まってセピア調になる、そんなイメージ。
鹿児島県を周った。指宿から霧島へ。ついでに県境を超え宮崎県にも。イザナギとイザナミを祀る霧島東神社はことのほか神々しかった。森の奥深くに木魂する鳥や虫たちの鳴き声が懐かしかった。

ジークフリート牧歌の「愛の平和」の動機に重なってフルートで奏される「眠り」の動機。この旋律は本当に優しい、慈しみの響きだ。誕生日の朝、突如この音楽によって目覚めさせられたコジマの感激はいかばかりだったか。この作品を自分だけのためのもの、すなわち門外不出にしようとした彼女の「拘り」というのもあながちわからぬでもない。それほどに愛情の詰まった、極めて個人的なラブレターだったのだから。

「眠り」の動機の旋律は、ブラームスの第3交響曲の主題と似たような音形をもつ。そう、冒頭の管楽器による基本動機に続いてヴァイオリンによって奏されるあの第1主題。特にこの主題が終楽章のコーダのところで再現されるときの「懐かしさ」は、「眠り」の動機を聴く時と同じような想念を発揚する(あくまで僕の個人的感情だけれど)。

深夜にとっておきのブラームス。
これほどまでに人間臭い、感情のドラマはなかなかない。楽器が泣き、音楽はうねる。聴く者はあっという間に別次元に誘われる。

ブラームス:交響曲第3番ヘ長調作品90
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1949.12.8Live)

至るところで語り尽くされている灼熱の、怒涛のブラームス。他のすべての演奏が生温く聴こえてしまうほど指揮者は音楽の世界に没入する。第3楽章ポコ・アレグレットの感情移入はやり過ぎの感を否めないが、その後に続く終楽章の高貴な音楽が、徹底的に人間世界と一体化する様を体現するための前奏だとするならあそこまでやる理由がわからぬでもない。それこそコーダの第1楽章第1主題の回想シーンは涙なくして聴けぬ。

交響曲第3番は1883年の作曲。ワーグナーの死は同年2月13日。果たして、ヨハネス・ブラームスはワーグナーへのオマージュとして「眠り」の動機を何気なく潜り込ませたのかどうなのか・・・。それはわからないけれど、ワーグナーとブラームスとは、「ここ」で大きな接点を持ったように思えてならない。
またしても勝手な空想だけれど。

 


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