モントゥーの「春の祭典」(GT9049)

朝日新聞夕刊を見ていたら、「人生の贈りもの」は冨田勲さんだった。かつて、「展覧会の絵」をはじめとする彼のシンセサイザー音楽を繰り返し聴き、その独創的なアレンジと、いわゆる電子楽器の無限大の響きに度肝を抜かれ、その可能性に随分惹かれたことを思い出した。そのうち飽きが来てしまったのか、夢中で聴くことはなくなったけれど、時折取り出して耳にする冨田サウンドはやっぱり「心のツボ」を刺激する。

冨田勲さんはストラヴィンスキーの「春の祭典」を聴いて作曲家への決意を固めたのだと。なるほどいかにも彼らしい。そしてその進取の精神、前衛的なセンスこそが彼の天才の源泉なんだと確認した。

パレットの上で色彩豊かな色を作って描き殴ったような、あの音色に衝撃を受けてね。進駐軍放送で流れたピエール・モントゥー指揮のボストン交響楽団のレコードでした。おやじに平身低頭して、1枚3800円もするレコードをアメリカから2枚取り寄せた。
おやじが東京に来たとき、あの高いレコードを聴かせろと言う。ところが、冒頭でファゴットが高音の旋律を奏で始めると、おやじの頭上に「???」と浮かんでいるのがありありと見えた。激しいリズムの「春のきざしと若い男女の踊り」でついに聴くのをやめ、寝てしまった。
しばらくして、おやじがちょっと岡崎に帰ってこいと言う。戻ったらおふくろと2人で「お前、どこかの新興宗教にだまされているんじゃないか」と。激しいリズムの部分で連想したらしい。あんな音楽がそんなに高価なはずがないと。これには参りました。
(朝日新聞夕刊2013年7月18日)

実に面白いエピソードだ。
これこそ音楽が万国共通で大衆を煽動する「力」を持っているという証。しかも旋律を聴いて人は勝手に連想するのだから、これはもう「思い込み」以外の何ものでもない。(音楽)芸術というものに対して人間の脳、つまり判断力・理解力のいかに狭小であることか。要は、それまでになかったものを、新しいものをついつい否定したくなるというのが人の常ということだ。

それともうひとつ。宗教というものに対する誤解。特に戦後の日本人は宗教を毛嫌いする傾向があるが、そもそも宗教とはいずれの団体に属する云々ではなく、信仰心そのものを表すことを忘れてはならない。そして、大宇宙、大自然、あるいは神仏への信仰心というのは本来誰もが持っているものだということも(その証拠に神頼みは誰だってするし、年始には誰もが神社詣でをするだろう)。そう考えていくと無神論というイデオロギーがそもそもおかしい。

そうか、音楽とはすなわち宗教なんだ。音楽を聴くという行為が信仰の表れだし、音楽をするとなるとこれはもうその発信者だということ。確かにいつどの時代にどこの地域で生み出されたものだって作曲者の想念が詰まり、それによって大衆を感動させよう、あるいは興奮させようという意図が根底に必ずあるもの。

自律的に生きるために依存は不要だけれど信仰は不可欠だ。

ストラヴィンスキー:バレエ音楽「春の祭典」
ピエール・モントゥー指揮パリ音楽院管弦楽団

冨田氏が聴いたボストン響盤ではないけれど、昔随分聴き込んだもの。さすがに初演者の貫録というのか、晩年のモントゥーの棒は限りなく透明で、限りなく熱い。そして何より、たったいま音楽が創造されたかのように生々しい。

 


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