ビーチャム卿のフランス音楽ボックスを聴いて思ふ

ビーチャム卿のフランス音楽ボックスを聴いた。
3枚目はドリーヴのバレエ音楽や、サン=サーンス、あるいはベルリオーズのオペラから抜粋されたダンス音楽が収録されており、実に躍動感に満ちた音楽が繰り広げられ、興味深い。音楽というものを舞踊と合せて表現するという手法が、見えない音楽を視覚化するひとつの、そして最高の方法だということをあらためて確認し、ひとり悦に入る。
中に、ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」があった。一瞬「はて?」と首を傾げたが、そういえば1912年5月にニジンスキーの振付でバレエ・リュスによりバレエ初演されているのだった。かれこれ6年前に目黒の庭園美術館でパリ・オペラ座による舞台の映像が上映されたのを観に行ったか。初演当時物議を醸したあの舞台は、妖艶というより一種卑猥な動きが特長で、100年前の聴衆にしてみると大変な衝撃だったろうことが容易に想像できる。

ところで、ビーチャム卿といえば、数ヶ月前、ロイヤル・フィルとのベートーヴェンの第7交響曲に触れ度肝を抜かれた。その時のことを思い出して、もしやと思い、セザール・フランクの交響曲が収められた5枚目を取り出した。
いや、もう冒頭から言葉が出ないほど。大変なテンションで、これが実演だったら相当の興奮の極みを味わえただろうと・・・。弱音部の見事な静けさと、強音部の有機的な轟き。この対比が自然で実に堂に入る。いかにも理知的で高貴な演奏を披露する印象のビーチャム卿がここぞとばかりに暴れるのだから堪らない。

さらに、エドゥアルド・ラロの交響曲。この珍しい作品をビーチャム卿はこれまた純音楽的でありながら、実に感情を伴なった余裕のある大演奏を繰り広げるのだ。ラロはあくまで音楽を純音楽として捉えており、ラテン的な要素を前面に押しつつどちらかというとニーチェの言うアポロン的な側面に焦点を当てて表現すると面白いだろう作品を、どうにもデュオニソス的な側面に傾いた表現を彼はとる(このあたりも僕はビーチャムを誤解していた。徹底的にアポロン的な音楽家だと思っていたから)。

ストラヴィンスキーの自伝「私の人生の年代記」を思い出した。

古典バレエは、その本質自体において、その構成の美しさとその形式の貴族的厳格さによって、私の芸術観にこのうえなくよく一致している。なぜなら、古典的舞踊においては高尚な構想がとりとめなさに、規則が恣意に、秩序が「偶発的なもの」に打ち勝つのが見て取れるからである。そう言ってよければ、芸術におけるアポロン的原理とディオニュソス的原理との永遠の対立に、私はそのようにして達する。後者は法悦、即ち自己喪失を最終目的とみなすが、他方、芸術はなによりもまず芸術家の自覚を要求する。それら2つの原理のあいだでの私の選択はしたがって疑いの余地がないだろう。
P116-117

さらに、ストラヴィンスキーはマラルメの「私たちが詩句を作るのは思想を用いてではなく、言葉を用いてですよ」という言葉を引用し、次のように書く。

ベートーヴェンもそうだった。彼の真の偉大さが存在するのは、彼の思想の特性においてではなく、彼の音響的実体の高次な特質においてなのだ。
P136

うーむ。となると、少なくとも「春の祭典」におけるゲルギエフなどの解釈は作曲者の意に沿わないものということになる。あのスキャンダルを巻き起こした傑作は純音楽を志向しているということか・・・。

ストラヴィンスキーの考えには僕自身無条件に首を縦に振ることはできない。
音楽には思想も感情も当然反映されているだろうから。ベートーヴェンなどはその最たるもの(いや、もしつながること、人類はひとつであること、あるいはZEROという状態を思想といわないのであれば、確かにストラヴィンスキーのいう「音響的実体の高次な特質」という表現の方が正しいのかも。高次というのがポイント)。

・フランク:交響曲ニ短調
・ラロ:交響曲ト短調
・フォーレ:パヴァーヌ作品50
サー・トマス・ビーチャム指揮フランス国立放送管弦楽団(1959.12.1-4録音)

それにしてはフォーレはいかにもそっけない表現だ。
いずれにせよ感情と理性と悟性というのは三位一体ということ。右脳と左脳が厳密には分離できないように、アポロンもディオニュソスもつながりの中に在る。ニーチェの狂気は何事も二元論で片づけようとしたところに源があるのでは・・・。

 

 


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4 COMMENTS

畑山千恵子

クラシック・ジャーナルでボックス特集をやったものの、アマゾンのレヴューで、
「こんなものを出すだけ無駄だ。」
という人がいました。ボックスも次々とてできている以上、そんなものを特集として取り上げても新しいものが出てくる現実では無駄な試みですね。
ビーチャムのボックスもかなりお宝者のようですね。これからもそうしたボックスはたくさん出てくるでしょう。私もモツァルトの交響曲、ピアノ協奏曲、ルドルフ・ゼルキンのベートーヴェン、グレン・グールドのボックスなどを買ったりしました。盤の質もありますが、こうしたボックスはこれからも出てくるでしょう。

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岡本 浩和

>畑山千恵子様
ビーチャムのボックスはかなりの出色です。
ほんとに今はボックス流行ですが、格安なのでつい手が伸びてしまいます。しかし、その中に思ってもいない名演があったりするわけで・・・。一種の宝探しのようなものです。

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