晩年のギュンター・ヴァントの、眼光鋭い視線が熱い。
目は口ほどにものを言う。緩やかに、そして確信を持って振り下ろされる棒によって生み出される音楽は一点の淀みなく、清い。オーケストラを完璧に統制し、その能力を最大限に引き出したヴァントの力の源は、ほかでもない音楽への献身。
オーケストラの前に立つとき、私は、音楽家たちは私ができないことができるのだ、ということをはっきり自覚している。私はヴァイオリンが弾けない、フルートやトランペットが吹けない、オーケストラの楽器を何一つマスターできていない。それゆえ私は音楽家たちの能力に大きな敬意を抱いている。逆に私は彼らが、指揮者はオーケストラの個々の音楽家には与えられていないことをなしうるのだ、という認識を得ていてほしいと思っている。オーケストラの音楽家たちと指揮者は互いに依り頼む関係にあり、相互の関係はそれゆえ理性的にバランスのとれたものでなければならない。基本的な前提となるのは当然ながら、指揮者が自分のしたいことをよく知っていること、すべてに確認をもっていることである。
~ヴォルフガング・ザイフェルト著/根岸一美訳「ギュンター・ヴァント―音楽への孤高の奉仕と不断の闘い」(音楽之友社)P58-59
組織の理想的なあり方を示唆する名言だと僕は思う。
互いが互いを補い、助けること。そして、リーダー含め個々は最大限のパフォーマンスを出すべくベストを尽くすこと。ヴァントの最後の来日公演のときも、オーケストラ団員の、それこそ鬼神が乗り移るような集中力と指揮者の棒に見事に反応する演奏力に心底感動したことを僕ははっきりと覚えている。
久しぶりにヴァントの、シュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭でのブルックナーを観て、あらためて感動した。相変わらず弦楽器はうねり、木管は泣き、金管は咆哮する。しかし、一切の曇りはなく、どの瞬間も力強く、そしてまた優しい。それはもう指揮者の眼差しと一体化する神秘とでも表現されるべきもの。
シュレスヴィヒ=ホルシュタイン音楽祭1998
・ブルックナー:交響曲第5番変ロ長調(ハース版)
ギュンター・ヴァント指揮北ドイツ放送交響楽団(1998.7.11Live)
リューベックのムジーク&コングレス・ハレは文字通り超満員。
固唾を飲んで見守る聴衆の姿と挙動を観るにつけ、2000年の来日公演、オペラシティ・コンサートホールでのピンと張りつめた異様な緊張感を思い出さずにはいられない。
第2楽章アダージョの、もはやブルックナーの音楽しか感じさせない崇高な美しさに言葉がない。ヴァントの優しさ、あるいは愛情が全編に行き渡る音楽。
一層素晴らしいのは終楽章。30分近くに及ぶこの壮大で複雑な音楽は、まさに神の音楽。
老練の巨匠が仁王立ちになり、コーダでぐっと息を吐きながら渾身の棒を降る様に、思わず拳を握る。とはいえ、ここでも音楽は一切の乱れなく、中庸だ。
これこそヴァントの言う、指揮者とオーケストラとの「理性的なバランス」の体現。
それにしてもこの頃の映像は解像度が低く、今となっては致命的。
いずれデジタル・リマスター版がリリースされることを期待したい。
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ヴァントへの敬意はいつもながらまったく同感ですが、そろそろこの曲に、誰もが想像し得ないような、例えばアンチクライマックス的な手法でさえも採り入れた、まったく意表を突いた新しいタイプの名演を聴かせてくれる巨匠は出てこないかな・・・と、スクロヴァチェフスキをほんの少しだけ意識して発言してみます。
>雅之様
>誰もが想像し得ないような、例えばアンチクライマックス的な手法でさえも採り入れた、まったく意表を突いた新しいタイプの名演
うーむ、僕の今の知識では想像がつきません。スクロヴァでもなさそうですが・・・(笑)、意外な人がやったりするかもしれませんね。しかし、その場に居合わせることができるかどうか、あるいはそういう音盤を手に取るかどうか・・・。
普通はそうですよね(笑)。でも、理屈は後から貨物列車に乗ってやってくるんです(笑)。
第4楽章 → 第3楽章 → 第2楽章 → 第1楽章
と逆に演奏するのはどうでしょう? 過去を辿っていく解釈。スクロヴァ的な隠し味を添えて・・・。
四国のお遍路だって、今年は順路逆回りだっていうじゃありませんか!
宇野さんだったら「こざかしい」の一言で終わるかもしれませんが、柴田南雄さんなら、きっと面白がると思います。
>雅之様
なるほど!逆から演奏するというパターンは盲点でした!(笑)
確かに音盤ではつまみ聴きとか逆から攻めるっていうのがありますからね。
ま、しかし、そんなことをやってくれる勇気ある指揮者は今の時代いないでしょうね・・・。
柴田さんは面白がりますか!意外に宇野さんだったりして・・・、あるいは吉田さん??